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ボレスワフ2世ロガトカ : ミニ英和和英辞書
ボレスワフ2世ロガトカ[ぼれすわふ2せいろがとか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

ボレスワフ2世ロガトカ : ウィキペディア日本語版
ボレスワフ2世ロガトカ[ぼれすわふ2せいろがとか]

ボレスワフ2世ロガトカポーランド語:Bolesław II Rogatka、1220年/1225年頃 - 1278年12月26日/12月31日)は、クラクフ(在位:1241年)、ヴィエルコポルスカ南部の公(在位:1241年 - 1247年)、そして弟達に領土を分割するまでは全シロンスクヴロツワフの公(在位:1241年 - 1248年)、以後はレグニツァ公(在位:1248年 - 1278年)であった。また1277年からはノイマルクト(シロダ・シロンスカ)の公だった。ヘンリク2世(敬虔公)の長男、母はボヘミア王オタカル1世の娘アンナ
ボレスワフ2世の治世には、1259年にノガイとによる2度目のモンゴル侵攻があり、弟達の反乱もあってシロンスク公国を分割、小規模な国家群(シロンスク公国群)に転落した時代だった。異称「ロガトカ」は寝とられ夫を暗示する「角の生えた」を意味する。禿頭公(Łysy)という異称もある。
== 生涯 ==

=== 治世初期、ヴィエルコポルスカをめぐる戦い(1241年 - 1247年) ===

ボレスワフは父と違って統治者としての準備を十分に出来ないまま君主の座についた。それは1241年4月9日、モンゴル帝国とのレグニツァの戦いにおいて、父が大公位について僅か3年で戦死したからである。この悲劇的な事件の後、シロンスク公家の5人の息子のうち、長男のボレスワフ2世と次男のミェシュコだけが成人として、摂政をおくことなく統治者になれると見なされた。
しかし、最初の数か月は公国の統治が困難をきわめ、母親のアンナが息子を補佐したと思われる。一部の史料ではアンナが直に公国の摂政となったと述べている。この「摂政」期間は短く、同年中にボレスワフ2世は公式に単独の統治者となったが、その治世は最初から苦難が待ち受けていた。モンゴル人はシロンスクの大部分を制圧した後でハンガリーへと移動していったが、この地域を永続的に支配しようと考えており、この状況はボレスワフ2世にとって楽観できることではなかった。
ボレスワフ2世は父からヴィエルコポルスカ南部とクラクフをも受け継いだが、長子領であるこの地域を狙う他の諸公がすぐに反乱を起こした。マウォポルスカでは、1241年にマゾフシェ公コンラト1世が永久のクラクフ公の地位を主張した。クラクフの行政長官クレメント・ス・ルシュチの組織したマゾフシェ公に対する抵抗運動が功を奏したおかげで、ボレスワフ2世はこの戦争を切り抜けた。しかし暗愚なボレスワフ2世に失望させられた貴族達は、間もなく新たなクラクフ公にボレスワフ5世(純潔公)を選んだ。
ヴィエルコポルスカでの状況も他とさほど変わりなかった。レグニツァでのヘンリク2世戦死の報を聞くとすぐに、プシェミスウ1世ボレスワフ・ポボジュヌィの兄弟は、かつて亡父ヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツが領有していた地域を取り戻すことを決意した(父の死後、遺領の大部分をヘンリク2世に奪われていた)。ヴィエルコポルスカの貴族階級及び騎士階級は(年代記作家によれば)この2人を自分達の公国の本来の統治者だと見なしており、彼らの領土奪回運動を熱心に支援した。
この時ボレスワフ2世は戦いを避けるためにヴィエルコポルスカの領土の全てを放棄したが、その補償としてサントクミェンジジェツの小規模な領地を得た。しかしヴィエルコポルスカの公爵兄弟は非妥協的態度をとり続け、この圧力はシロンスク公家内の不和の原因ともなり始めたため、ボレスワフ2世は補償として得ていた領地を放棄し、1247年にはヴィエルコポルスカに対する要求自体を全面的に取り下げた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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