翻訳と辞書
Words near each other
・ フリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー
・ フリードリヒ・カール・アンドレアス
・ フリードリヒ・カール・ギンツェル
・ フリードリヒ・カール・フォン・エバーシュタイン
・ フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン
・ フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー
・ フリードリヒ・カール・フォン・ザヴィニー
・ フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン
・ フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン (1828-1885)
・ フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン (1893-1917)
フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン
・ フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン=カッセル
・ フリードリヒ・カール・ヴィルヘルム
・ フリードリヒ・キットラー
・ フリードリヒ・キール
・ フリードリヒ・ギュンター (シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯)
・ フリードリヒ・クラウス
・ フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)
・ フリードリヒ・クリスティアン (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)
・ フリードリヒ・クリスティアン・フォン・ザクセン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン : ミニ英和和英辞書
フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン[かー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン : ウィキペディア日本語版
フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン[かー]

フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン=カッセル(、フリードリヒ・カール・ルートヴィヒ・コンスタンティン・フォン・ヘッセン=カッセル、、1868年5月1日 - 1940年5月28日)は、ヘッセン=カッセル方伯家家長。1918年の短期間、フィンランド国王カールレ1世と称した。
== 生涯 ==
プレーン(現在のドイツシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の町)の一族の所領で生まれた。父はヘッセン公子フリードリヒ(ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の曾孫)、母は2度目の妃プロイセン王女マリア・アンナドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の実弟、カール・フォン・プロイセンと妃マリーの娘)だった。父フリードリヒはデンマーク軍士官であり、1840年代にフレデリク7世の跡目問題が発生すると、次期王位継承者の一人と目された。デンマーク王家の男系がフレゼリク7世の死とともに途絶えると、彼の姉ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセルと結婚していたクリスチャン9世が即位した。フリードリヒはデンマークで長く暮らしたが1875年、ヘッセン=カッセル家の本流であるヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が亡命先のプラハで死去すると、傍系の彼が継承してドイツ北部へ移り住んだ。
フリードリヒ・カールが生まれて18日後、彼の従姉にあたるマリア・フョードロヴナサンクトペテルブルクで長男ニコライを生んだ。奇しくも、数十年後にニコライ2世から彼はフィンランド王位を引き継ぐこととなる。
父フリードリヒの死後、長兄フリードリヒ・ヴィルヘルムがヘッセン=カッセル方伯を継承し、その後次兄アレクサンダーが継承した。
1917年12月6日ロシア革命によりロシア帝国の瓦解を見届けたフィンランドは、ドイツ帝国にせき立てられるように独立を宣言した。新国家は君主制と共和制のいずれを選択するか迫られた。当時のフィンランド議会は王制支持者が多数を占めていたが共和制を宣言、内戦に突入したが、王制支持者が主導権を握り、1918年10月、皇帝ヴィルヘルム2世の義弟フリードリヒ・カールをフィンランド国王に選出した。
リトアニアは既にこれと似たような段階を1918年7月に踏んでいた。ヴュルテンベルク王家の傍系ウラッハ公をリトアニア国王ミンダウカス2世として選出していたのである。ラトヴィアエストニアは、バルト連合公国を形成してバルト=ドイツ系貴族を君主に据える構想ができあがっており、ヴィルヘルム2世はバルト海沿岸の3カ国が帝国の構成国となることを狙っていた。既に君主として、メクレンブルク=シュヴェリーン公アドルフ・フリードリヒの名前が挙げられていた。
ヴィルヘルム2世は、フィンランドもバルト連合公国と同じようにすべく考えていた。しかし、フィンランドの王制移行は遅れた。王制支持者は、かつてスウェーデン領だった頃の法律を引き合いに出し、また、19世紀にロシア皇帝がフィンランド大公になってからの法も多く存在した。フリードリヒ・カールは、『フィンランドとカレリアの王、オーランド公、ラップランド大公、カレワラ卿、カールレ1世』と称することとなった。(フィンランドの選挙に関する書類には『フレドリク・カールレ』と記載されており、『ヴァイノ1世』と名乗ったという説には疑問が呈される。)
1918年11月11日、第一次世界大戦にドイツ帝国は敗戦し、ヴィルヘルム2世は退位し、ドイツ共和国の成立をみた。ドイツの敗戦により、連合国はフィンランドにドイツ系の君主が誕生するのを決して受け入れなかった。12月14日、フリードリヒ・カールは即位を辞退し、フィンランドは共和制を選択した。
1925年3月、次兄アレクサンダーからヘッセン=カッセル方伯家家長を継承。1940年にフリードリヒ・カールが亡くなると、三男フィリップが後を継いだ。しかし、方伯家の文書と書簡によると、彼は四男ヴォルフガングをフィンランド王位請求権者に指名していた。ヴォルフガングは1918年に両親とフィンランドを訪問し、未来の王太子としてフィンランド人女性と結婚する準備をしていたのが明らかなためだった(この時フィリップは従軍しており同行していない)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.