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フランス領テキサス : ミニ英和和英辞書
フランス領テキサス[ふらんすりょうてきさす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランス : [らんす]
 【名詞】 1. lance 2. (n) lance

フランス領テキサス : ウィキペディア日本語版
フランス領テキサス[ふらんすりょうてきさす]

フランス領テキサス(フランスりょうテキサス、)は、後にテキサス州となった地域の歴史の中で1685年から1689年まで存在した。この期間、現在のテキサス州アイネズ近くにフランス植民地としてサンルイ砦があった。探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールミシシッピ川河口に植民地を設立しようとしていたが、当時の地図の不正確さと航法上の誤りのために、船が400マイル (644 km) 西のマタゴルダ湾に近いテキサス海岸沖に錨を下ろすことになった。

この植民地はその短期間しか存在しなかった間にも、敵対的インディアン、疫病および厳しい気象条件など数々の困難さに直面した。ラ・サールはその当初の任務を心に掛けて、ミシシッピ川を発見する為に何度か遠征を試みたが、結果的にはリオ・グランデ川の大半とテキサス東部の一部を探検した。ラ・サールが1686年に不在となっているときに、植民地の最後の船が難破し、植民地の人々はカリブ海にあったフランス植民地からの物資を得られなくなった。状況が悪化する中でラ・サールはイリノイ郡にあったフランス開拓地からの援助が無ければこの植民地は生き残れないと認識した。ラ・サールが1687年初期にブラゾス川へ最後の遠征を行った時、彼と隊員の中の5人が遠征隊中の競争相手によって殺された。隊員から一握りの者達がイリノイに到着したが、結局救援は来なかった。植民地に残っていた者達は1688年のカランカワ族の襲撃で殺されるか捕まった。この植民地は実質3年間存続したが、その存在によってフランスは現在のテキサス地域の領有を主張し続け、後にアメリカ合衆国ルイジアナ買収の一部としてこの地域を購入した時にフランスの主張を支持することになった。
スペインは1686年にラ・サールの任務について知った。フランスの植民地ができることは、スペインにとってヌエバ・エスパーニャ北アメリカの南部に対する脅威となることを心配したので、スペイン当局は開拓地を見つけ排除する為の数度にわたる遠征隊を手配した。これらの遠征は失敗したが、メキシコ湾岸地域の地形の理解には役立った。スペインが1689年になってやっとフランス開拓地の残骸を発見したとき、大砲を埋め、建物を焼却した。何年か後にスペイン当局は同じ場所に砦を建設した。スペインがこの砦を放棄した時にフランス開拓地の場所は忘れられたものとなった。その場所は1996年に再度発見され、現在は考古学的史跡になっている。
== 遠征 ==

17世紀後半までに、北アメリカの大半はヨーロッパ諸国によって領有権主張されていた。スペインはフロリダと現在のメキシコおよび大陸の南西部の大半を領有権主張していた。北大西洋の海岸部はイギリスに、現在のカナダの大半と中央部のイリノイ郡はヌーベルフランスとしてフランスに領有権主張されていた。フランスはその領土が隣国の拡張主義者達の標的として脆弱であることを恐れた。1681年、フランスの貴族ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがヌーベルフランスからミシシッピ川を下る遠征隊を発したが、当初その先には太平洋を発見できると思っていた〔Bannon (1997), p. 94.〕。ラ・サールはその代わりにメキシコ湾を発見した。スペイン人エルナンド・デ・ソトが140年前にスペインのためにこの地域を探検し領有権主張していたが〔Weber (1992), p. 148.〕、ラ・サールは1682年4月9日にフランス王ルイ14世のためにミシシッピ川流域の領有権を主張し、その領土を国王に因んでルイジアナと名付けた。

フランスはミシシッピ川の一帯に基地を持っていなかったので、スペインはメキシコ湾岸全体を支配する機会を持っており、潜在的にヌーヴェルフランス南境界に対する脅威となっていた〔Chipman (1992), p. 73.〕。ラ・サールはミシシッピ川がヌエバ・エスパーニャ東端に近いと考え、1783年にフランスに戻った時、河口に植民地を建設することを提案した。この植民地は先住民にキリスト教を布教すると共に、スペイン領ヌエバ・ビスカヤを攻撃する為に便利であり、魅力的な銀鉱山の支配を得るための基地を提供してくれるはずだった〔〔Calloway (2003), p. 250.〕。ラ・サールは、少数のフランス人が行ったとしても、スペインの奴隷化政策に怒っているインディアン15,000人を味方に付ければ、ヌエバ・エスパーニャを侵略できると主張した〔。1683年10月にスペインがフランスに対して宣戦布告した後、ルイ14世がラ・サールの計画支援に合意し、ラ・サールの公式任務には「インディアンのフランス国王に対する同盟を確保し、真の忠誠に導き、部族間の和平を維持すること」も含まれるようになった〔。
ラ・サールは当初船でヌーベルフランスに渡り、陸路イリノイ郡を抜けて、ミシシッピ川を河口まで降る計画だった〔Bruseth and Turner (2005), p. 76.〕。しかし、ルイ14世はスペインを欺く為に、スペインがその排他的資産だと考えるメキシコ湾を航行することを主張した〔Bruseth and Turner (2005), p. 19.〕。ラ・サールは1隻のみの船を要求していたが、1684年7月24日ラ・ロシェルを出航した時は、大砲搭載数36門のマン・オブ・ウォー、''ル・ジョリー''、300トンの貨物船''レマブル''、バークの''ラ・ベル''およびケッチの''サンフランソワ''合計4隻になっていた〔Weddle (1991), p. 13.〕〔Chipman (1992), p. 74.〕〔。ルイ14世は''ル・ジョリー''と''ラ・ベル''を与えたが、ラ・サールは積荷のスペースを多く望み、''レマブル''と''サンフランソワ''をフランスの商人から借りた。ルイ14世はまた100人の兵士と船の乗組員全員、さらには遠征に加わる熟練労働者を雇う資金も与えた。ラ・サールは物資を購入しインディアンと交易する必要があった〔Bruseth and Turner (2005), p. 20.〕。
これら艦船には兵士、職人や技能者、6人の宣教師、8人の商人、および12人以上の女性と子供を含みほぼ300人が乗り組んだ〔〔Weddle (1991), p. 16.〕。彼らの出発後間もなく、フランスとスペインは敵対関係を止め、ルイ14世はラ・サールにそれ以上支援をおくることにはもはや興味が無くなった〔Weber (1992), p. 149.〕。航海の詳細は秘密にされたので、スペインはその目的に気付かず、ラ・サールの航海指揮官ボージュー卿はラ・サールがその途上まで目的地を明かさなかったことに不満だった。二人の間の不和はドミニカサントドミンゴについた時に増幅され、何処に停泊するかで喧嘩になった。ボージューはその島の別の所に行って、スペインの私掠船に植民地のための物資、食糧および道具を満載していた''サンフランソワ''を捕獲された〔。

58日間の航海の間に2人の者が病気で死に、1人の女性は赤ちゃんを出産した〔。サントドミンゴへの航海は予測していたよりも長く掛かり、''サンフランソワ''を失った後は特に食糧が底を付き始めた。ラ・サールは物資を補給する為の金をほとんど持っていなかったので、最終的に遠征に加わっていた商人のうちの2人が交易の為の商品を島人に売却し、その利益をラ・サールに貸与した。数人の男達が脱走した隙間を埋めるために、ラ・サールは島人数人を徴募して遠征に加えた〔Weddle (1991), p. 17.〕。
1684年11月遅く、ラ・サールが重病から十分に快復したときに、残っていた3隻の船でミシシッピ川デルタの探索を継続した〔 Chipman (1992), p. 75.〕。サントドミンゴを離れる前に、地元の水夫が東に流れ、何もしなければフロリダ海峡の方に船を引っ張っていってしまうことになる強いメキシコ湾流について警告した〔。12月18日、3隻の船はメキシコ湾に達し、スペインがその領海として主張する水域に入った〔Weddle (1991), p. 19.〕。遠征隊のどのメンバーもメキシコ湾に入ったことはなく、そこをどのように航海すべきかも知らなかった〔Weddle (1991), p. 20.〕。不正確な地図と、ラ・サールが以前にミシシッピ川河口の緯度を間違って計算していたこと、さらには湾流に対して過剰に反応したために、遠征隊はミシシッピ川を見つけられなかった〔Chipman (1992), p. 76.〕。その代わりに1685年早くにミシシッピ川から400マイル (644 km) 西のマタゴルダ湾で上陸した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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