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フニャディ・ヤーノシュ : ミニ英和和英辞書
フニャディ・ヤーノシュ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フニャディ・ヤーノシュ : ウィキペディア日本語版
フニャディ・ヤーノシュ[ちょうおん]

フニャディ・ヤーノシュ(、イオアン・デ・フネドアラ()、ヨハネス・コルヴィヌス(デ・フニャド)(、1387年〔ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)、54頁〕〔アンリ・ボグダン『東欧の歴史』(高井道夫訳, 中央公論社, 1993年4月)、654頁〕/1407年〔パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史』2 増補版(田代文雄、鹿島正裕訳、恒文社、1990年2月)、324頁〕〔南塚『図説ハンガリーの歴史』、23-24頁〕〔柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)、付録11頁〕/1409年〔 - 1456年8月11日)は、現在のルーマニア出身のハンガリー貴族
同時代の史料には、ルーマニア南部のワラキアの貴族の家系の出身と記される。オスマン帝国の侵入に晒されるハンガリー南部の国境地帯に身を置き、戦闘を経て軍事技術を習得した。1441年トランシルヴァニアの公(ヴォイヴォダ)といくつかの地区の知事に任ぜられ、国境の防衛を一手に引き受けた。
フニャディは気分次第で従軍を決める貴族出身の騎士に頼らず、錬度が高い傭兵と士気の高い志願兵を戦力の中心に据えた〔パウル・レンドヴァイ『ハンガリー人 光と影の千年史』(稲川照芳訳, 信山社出版, 2008年12月)、77-79頁〕。ボヘミアフス派の傭兵が戦力の中心であり、親族、信奉者、家臣を軍に加え、一般の民衆も軍隊に編入した〔エルヴィン『ハンガリー史』1 増補版、132頁〕。そして、戦闘に大型の四輪荷車を連結するフス派の戦法英語版を導入した〔オツェテァ『ルーマニア史』1巻、203-204頁〕。一連の軍事技術の革新によって、フニャディは1440年代初頭にハンガリー南部に侵入したオスマン軍に勝利することができた。1444年ヴァルナの戦い1448年コソヴォの戦いでの敗北にもかかわらず、1443年から1444年にかけてのバルカン山脈を越えての「大遠征」と1456年のベオグラードでのオスマン皇帝メフメト2世に対する勝利によって、偉大なる指揮官としての名声を確立した。キリスト教世界のために戦う兵士を激励するため、ローマ教皇は週に一度教会の鐘を鳴らすよう命じていたが、1456年のベオグラード防衛の後、カトリックの教会と一部のプロテスタントの教会はフニャディの勝利を記念して毎日の正午に鐘を鳴らすようになった。
フニャディは、政治家としても優れた素質を持っていた〔ピーターズ「フニャディ」『世界伝記大事典 世界編』8巻、473-474頁〕。1440年代初頭にヴワディスワフ3世(後のウラースロー1世)とラディスラウス・ポストゥムス(後のラースロー5世)がハンガリー王位を巡って争った時、フニャディは前者を積極的に支持した。議会の中小貴族から支持を集めたフニャディは、1445年にウラースロー1世の死後にハンガリー王に選出されたラースロー5世が成年に達するまでの間、ハンガリーの国政を担当する7人の「レルムの指導者」のうちの1人に選出された。続く国会で、フニャディは唯一の摂政に選出された。1452年に摂政の地位を辞した後、ラースロー5世はフニャディを総司令官に命じ、多くの爵位を与えた。かくしてフニャディはハンガリーの有力な大貴族の1人になり、その死去まで議会における影響力を維持した。
教皇ピウス2世はフニャディを「」(キリスト教の守護者)と讃えたが、フニャディはベオグラードの勝利の3週間後に軍内で流行していた疫病に罹って没した。フニャディの勝利によって、ハンガリー王国は長らくオスマン帝国の侵入から守られた〔鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)、104頁〕。
== 出自 ==

フニャディ家はルーマニアのワラキア出身のハンガリー貴族であり〔、ルーマニア人を祖に持つと〔''Catholic Encyclopedia'' "フニャディ家はルーマニア人に起源を持つと考えられている。"〕多くの資料に記されている。フニャディ存命時の文献の中には、彼を指してValachusやBalachusといった、「ワラキア人」の意味を持つ言葉を使っているものもある。などの一部の歴史家は、フニャディをクマン人の末裔と考えている〔Hungarian Catholic Lexicon 〕〔A magyarok krónikája, pp. 156., 171.〕。また、出身のルーマニア人小貴族の出とする説もある〔Ioan Aurel Pop, Thomas Nägler, Mihai Bărbulescu, The History of Transylvania: Until 1541 , Romanian Cultural Institute, 2005 p. 294〕。
フニャディの名前が最初に現れるのは1409年ハンガリー王ジグモンド(神聖ローマ皇帝ジギスムント)が発した書状である。ハンガリーの宮廷に仕えていたフニャディの父ヴォイクは、この年にジグモンドから(現在のルーマニアのフネドアラ県に位置する)と領地、貴族としての地位を与えられた〔カーロイ『トランシルヴァニア』、74-77頁〕。姓の「フニャディ」は、このフニャド城に由来する〔。
フニャディの祖父は、集落の指導者だと考えられている〔。中世の年代記作家は父ヴォイクをヴラフ人の家系の生まれと記し〔"ex Valachis natus erat" (Aeneas Sylvius) http://mek.oszk.hu/05700/05736/html/01.htm〕、後世の歴史学者も年代記作家の見解に同意している.〔 ''A History of Hungary'' Peter F. Sugar, Péter Hanák, Tibor Frank – History – 1994〕〔Engel, Pal. ''Realm of St. Stephen : A History of Medieval Hungary, 895–1526''. London,, GBR: I. B. Tauris & Company, Limited, 2001. p xii.〕〔''Encyclopædia Britannica'' |"Janos Hunyadi" 〕〔''Encyclopedia of the Middle Ages'', Vol 1, De André Vauchez,Richard Barrie Dobson,Michael Lapidge p. 705 |http://books.google.com/books?id=qtgotOF0MKQC&pg=PR11&dq=Encyclopedia+of+the+Middle+Ages,+Volumul+1++De+Andr%C3%A9+Vauchez,Richard+Barrie+Dobson,Michael+Lapidge&lr=&hl=ro&cd=1#v=onepage&q=&f=false〕。ヴォイクはハンガリーの貴族(クニャージ)であるが、ヴォイクの名前の語源がタタール・クマン人の人名と関連性を示すことに着目する見解もある〔Acta orientalia Academiae Scientiarum Hungaricae, Volume 36 , Magyar Tudományos Akadémia, 1982 p. 425-427, Cited:'Recalling what has been said above concerning the Turkic name Bayq, we may rightly come to the conclusion that the name of Janos Hunyadi's father, Vayk was of Tatar-Cuman origin.', 'Vayk's family, which was of Tatar-Cuman origin', 'The Damga (Turkic/Raven) must have been the mark of Vayk's clan'〕。
フニャディの母親のモルジナイ・エルジェーベト(、もしくは〔Ioan-Aurel Pop, Thomas Nagler (coordonatora), ''Istoria Transilvaniei, vol. I (până la 1541)'' 〕)は、カランセベシュ出身〔László Kővári, Erdély nevezetesebb családai (more famous families of Transylvania) , Barráné és Stein Bizománya, 1854, p. 122〕のマジャル人零細貴族と考えられている。16世紀トランシルヴァニア・ザクセン人の歴史家であるは、エルジェーベトをフニャド(フネドアラ)出身の身分のルーマニア人小貴族と記した〔 available from: http://www.arcanum.hu/mol/lpext.dll/fejer/33f4/3598/35fb?fn=document-frame.htm&f=templates&2.0〕。
フニャディの次男であるマーチャーシュ1世に仕えた歴史家のは、フニャディ家の祖先を古代ローマ時代の氏族であるないしはに比定し、「ルーマニア人の父親とギリシャ人の母親から生まれた」主君の血筋を称えた。ボンフィーニと同時代のハンガリーの歴史家も著書『ハンガリー年代記』で同じようにマーチャーシュ1世の血統を称え、フニャディ家をフン族の末裔とし、マーチャーシュ1世を「第二のアッティラ」と呼んだ〔TEKE ZSUZSA: HUNYADI JÁNOS • 1407 k.–1456, 10. évfolyam (1999) 9–10. szám (93–94.) (Rubicon History Magazine, Hungarian)〕。ボンフィーニは、伝記の中でマーチャーシュ1世をコルヴィヌス(、「カラス」の意)の渾名で呼び、マーチャーシュ1世の父親であるフニャディもしばしばコルヴィヌスの渾名で呼ばれる〔Péter Kulcsár: ''A Corvinus-legenda'' . ''História'' (vol. 1993-01).〕。ヘルタイは、フニャディはジグモンドと貴族の娘エルジェーベトの間に生まれた落胤だと記している〔Heltai Gáspár: Krónika az magyaroknak dolgairól (ハンガリー語)〕〔Anthony Endrey, Hungarian History: From 1301 to 1686, Hungarian Institute, 1980 Citation from the book: "a Hungarian noblewoman, Elizabeth Morzsinai" 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フニャディ・ヤーノシュ」の詳細全文を読む




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