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フェルディナント3世 : ミニ英和和英辞書
フェルディナント3世[よ, せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

フェルディナント3世 ( リダイレクト:フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝) ) : ウィキペディア日本語版
フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)[ふぇるでぃなんと3せい]

フェルディナント3世(Ferdinand III., 1608年7月13日 - 1657年4月2日)は、ハプスブルク家神聖ローマ皇帝(在位:1637年 - 1657年)、ハンガリー王(在位:1625年 - 1657年)、ボヘミア王(在位:1627年 - 1646年)。フェルディナント2世と最初の妃でバイエルン公ヴィルヘルム5世の娘マリア・アンナ・フォン・バイエルンの三男。
== 生涯 ==
父の存命中からハンガリー王位、ボヘミア王位を継いでその治世を助けた。三十年戦争継続中の1634年、皇帝軍司令官ヴァレンシュタインが父によって暗殺された後を受けて、皇帝軍の指揮権を委ねられた。そのためこの指揮権は当初は飾り物であり、フェルディナントが帝位継承者であることを帝国内に宣言させるものでしかなかった。しかし、ヴァレンシュタインの死去を好機と見たスウェーデンハイルブロン同盟軍が大挙してネルトリンゲンに侵攻し、迎え撃ったフェルディナント3世は従弟かつ義弟のスペイン領ネーデルラント総督フェルナンドが率いるスペイン軍を投入して破り、逆にその存在を知らしめた(ネルトリンゲンの戦い)。
この勝利は父を喜ばせ、フェルディナントも戦後南ドイツを進軍・平定して回り、1635年に父がザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世バイエルン選帝侯マクシミリアン1世を始めとする反抗的な諸侯と和睦(プラハ条約)、1636年に選帝侯によりローマ王に選出され、帝位継承は確実となった。そして1637年、父の死去により神聖ローマ皇帝として即位した。
しかしその後も三十年戦争が続いた結果、帝国内は戦争のために大いに荒廃した。スウェーデン軍は健在でドイツを転戦していた上、1635年にフランス軍の侵攻をゆるしプラハ条約は破綻、皇帝軍はスウェーデン軍とフランス軍に敗北を重ね、1641年にネーデルラントでフェルナンドが病死、1642年ブライテンフェルトの戦いで弟の皇帝軍司令官レオポルト・ヴィルヘルムがスウェーデンの将軍レンナート・トルステンソンに敗北して戦況は不利となった。
1643年ロクロワの戦いでスペイン軍がコンデ公ルイ2世率いるフランス軍に大敗してスペインの援助は期待出来なくなり、1645年にはボヘミアへ侵攻したスウェーデン軍に皇帝軍が敗れると(ヤンカウの戦い)、プラハからウィーンへ逃亡する失態を犯し(ボヘミア王位は翌1646年、長男フェルディナント4世へ譲位する)、窮したフェルディナント3世は諸侯に休戦を主張するも当初は相手にされなかった。同年にテュレンヌ率いるフランス軍がバイエルンに侵攻、ネルトリンゲンの戦いで同盟軍のバイエルンが敗れ、ザクセンがスウェーデンと和睦を結びボヘミアまでの障害がなくなり、さらに窮地に陥った。
1646年にトルステンソンから指揮を引き継いだカール・グスタフ・ウランゲル率いるスウェーデン軍がテュレンヌのフランス軍と合流してバイエルンを侵略、1647年にマクシミリアン1世もフランス・スウェーデン軍と和睦して西からも攻められる危険性が生じた。1648年にバイエルンは和睦を破り皇帝軍に復帰したがツスマルシャウゼンの戦いで再びフランス・スウェーデン軍に敗北、スペインもネーデルラントでコンデ公に敗れ(ランスの戦い)、プラハがスウェーデン軍に包囲されたことで皇帝側の敗北は決定的となり、フェルディナント3世は新旧両派の妥協によりヴェストファーレン条約締結を受諾することで、ようやく三十年戦争を終結させることが出来た。
これは近代国家最初の国際条約であるが、これにより神聖ローマ皇帝は、宗教的にはプロテスタント諸侯の特権を大幅に認可し(カルヴァン派の容認)、政治的には領邦の自立権(主権)、オランダネーデルラント連邦共和国)とスイスの独立を正式に認めてしまったため、事実上神聖ローマ帝国は滅亡してしまったに等しくなった。この条約はいわゆる「神聖ローマ帝国の死亡診断書」であったのである。その上、戦勝国であるフランスとスウェーデンに帝国内の領土の領有を認めさせられていた。皇帝権力が否定され、帝国議会の議決の下に置かれたことで、皇帝による中央集権化(絶対主義)は瓦解した。この三十年戦争後の欧州の体制をヴェストファーレン体制という。もっともハプスブルク家領は維持することには成功、唯一失態を犯したボヘミアにおいてもプラハは陥落しなかったためハプスブルク家のボヘミア王位は保たれ、ハプスブルク家の世襲領であるオーストリアではカトリックは堅守され、絶対主義も維持されたため、オーストリアの帝国からの離脱の第一歩が始まったと言える。
三十年戦争後のフェルディナント3世はヴェストファーレン条約の履行に尽力した。晩年も外交で活躍し、1656年には西仏戦争のイタリア戦線で苦戦しているスペインに援軍を送り、死の直前にはスウェーデンカール10世の野望に警戒し、大洪水時代ポーランド・リトアニア共和国と同盟を締結した。
1657年、48歳で死去した。1654年に長男でハンガリーとボヘミアの王位を継承していたローマ王フェルディナント4世が死去していたため、帝位は翌1658年、次男のレオポルト1世が継いだ。
フェルディナント3世が締結した条約により帝国の混乱は鎮まったが、その代償は計り知れないほど大きかった。彼の時代に神聖ローマ皇帝は形式的な存在となり、同時にハプスブルク家の弱体化も始まったのである。ハプスブルク家の建て直しは1683年第二次ウィーン包囲の前後まで待たなくてはならず、本格的な再興はマリア・テレジアの登場によって始まることになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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