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フィンセント・ファン・ゴッホ : ミニ英和和英辞書
フィンセント・ファン・ゴッホ[ふぃん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

フィン : [ふぃん]
 【名詞】 1. fin 2. (n) fin

フィンセント・ファン・ゴッホ : ウィキペディア日本語版
フィンセント・ファン・ゴッホ[ふぃん]

フィンセント・ファン・ゴッホファン/ヴァンは姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。オランダ語では。オランダ・ホラント州の方言では、vanの"v"が無声化してとなる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を無声硬口蓋摩擦音化してと発音していた可能性がある。イギリス英語では、場合によってと発音し、アメリカ英語では(ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、(ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。〕(、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダ出身でポスト印象派(後期印象派)の画家。姓は、Goghではなく、Van Goghである〔http://www.vggallery.com/misc/archives/family_tree.htm〕。「Gogh出身の」という意味になる。主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミの精神病院での療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。
彼の作品は感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派の代表的画家である。フォーヴィスムドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。
== 概要 ==

ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(''→出生、少年時代'')。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグロンドンパリで働くが、1876年、商会を解雇された(→''グーピル商会'')。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダム神学部の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(''→聖職者への志望'')。以降、オランダのエッテン(''1881年4月-12月'')、ハーグ(''1882年1月-1883年9月'')、ニューネン(''1883年12月-1885年11月'')、ベルギーのアントウェルペン(''1885年11月-1886年2月'')と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の主要作品である。
1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては「タンギー爺さん」などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(''→パリ時代'')。1888年2月、南フランスのアルルに移り、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のゴッホの「耳切り事件」で共同生活は終焉した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(''→アルル時代'')。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミの精神病院に入院した。発作の合間にも「星月夜」など多くの風景画、人物画を描き続けた(''→サン=レミ時代'')。1890年5月、精神病院を退院してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り画作を続けたが(''→オーヴェル時代'')、7月27日、自ら銃を撃ち、29日死亡した。もっとも、自殺という一般の理解に対しては異説もある(''→'')。発作等の原因については、てんかん統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(''→病因'')。
生前に売れた絵はたった1枚「赤い葡萄畑」だったと言われているが(異説には数枚売れたとも言われている〔「ゴッホは生涯1枚しか絵が売れなかった」というのはウソ。知られていない5つのこと The Huffington Post 2015年10月05日〕)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や『炎の人ゴッホ』に代表される小説・映画などで描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といった幻想的イメージをもって語られるようになった(''→後世'')。
弟テオや友人らと交わした多くの手紙が、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる(''→手紙'')。約10年の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100以上の絵を残した。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画風景画などが多く、特に「ひまわり」や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあった(''→作品'')。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フィンセント・ファン・ゴッホ」の詳細全文を読む




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