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ピエール・ロチ : ミニ英和和英辞書
ピエール・ロチ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ピエール・ロチ ( リダイレクト:ピエール・ロティ ) : ウィキペディア日本語版
ピエール・ロティ[ちょうおん]

ピエール・ロティ(Pierre Loti 1850年1月14日1923年6月10日)はフランスの作家。本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud)。フランス海軍士官として世界各地を回り、その航海中に訪れた土地を題材にした小説や紀行文、また、当地の女性との恋愛体験をもとにしたロマンチック小説を多く書き残した。
== 生涯 ==
フランスシャラント=マリティーム県ロシュフォールにて、プロテスタントの一家に生まれた〔この記事は主に『ブリタニカ百科事典第11版』(1911年)に掲載されたエドマンド・ゴス(Edmund Gosse)による記事「Pierre Loti」による。別の参照が行われていない限り、ゴスが引用するために書いた引用文を含め、これはあらゆる箇所で使われている情報源である。〕。1866年、市役所の会計課主任だった父ジャン=テオドール・ヴィオーが、課から多額の株券が紛失した責任を取らされ(犯人は不明)、入獄して失職〔岡谷公二『ピエル・ロティの館』 作品社 2000年9月、p.8-9〕。一家は収入の道を絶たれ、17歳のとき、学費のかからないブレストの海軍学校に入学〔。ルボルダにて学んだ。海軍入隊後、1906年に大佐となった。1910年には予備軍に名を連ねた。
彼の筆名は、彼が若い頃とても恥ずかしがりで、無口だったことに由来すると言われている。この説によれば、彼はこうした性格のために、同僚たちから「ル・ロティ」(人知れず恋をするというインドの花)にちなんでそう呼ばれていたのだという。しかし学者たちは別の説を掲げている。こちらによると、彼はタヒチでそう呼ばれたのだという。タヒチで彼は日に焼けて、「Roti」と呼ばれた(というのは、地元の花のように真っ赤だったから)が、彼は「r」がうまく発音できなかったので「Loti」にした、というのである。彼には、自分は本なんて読んだことがないと言い張る癖があった(アカデミー・フランセーズの会員になった際にも「Loti ne sait pas lire(ロティは読む方法を知らない)」と発言している)。しかし友人たちや知人たちは、それが事実でないことを証言している。また彼の蔵書からも同様のことが分かる。多くの書物がロシュフォールの彼の家に残されているからである。
1876年、仲間の海軍将校たちは、彼が日記に書いたイスタンブールでの面白い体験のくだりを小説にしろと勧めた。それで書かれたのが『アジヤデ』である。この小説は、ロティの作品によく見られるように半分ロマンスで半分自伝である。彼は海軍演習で南方の海洋へ進み、タヒチを去った数年後、はじめ『ララフ』(1880年)という名でポリネシアの牧歌的生活を作品にして出版した。これは『ロティの結婚』として再出版され、彼を広く世に知らしめた最初の本となった。続く作品が『アフリカ騎兵』(1881年)で、これはセネガルでの一兵士の物悲しい冒険の記録である。
1882年、ロティは4つの小品(3つの物語と1つの旅行記)を集め、『倦怠の華(''Fleurs d'ennui'')』という総題をつけて出版した。
1883年、彼はより広く世間の注目を浴びた。その一つ目。彼は熱狂的な喝采を浴びた『私の兄弟イヴ(''Mon frere Yves'')』を出版した。これはフランス人の海軍士官(ピエール・ロティ)とブルターニュ人の水夫(イヴ・ケルマディック)の人生を描いた小説である。エドマンド・ゴスはこれを「彼の最も特徴的な作品のひとつ」と評している〔。二つ目。海軍士官として甲鉄艦アタラント号に搭乗し、ベトナム北部のトンキンで任務についている間に、ロティは3つの記事をフィガロ紙に発表した。1883年の9月から10月のことである。この記事はトゥアンアンの戦いで見られた残虐性についての報告だった。この行動によって軍から職務を停止すると脅され、これにより彼はより広く世間から注目された。
1886年、ロティはブルターニュの漁師たちの人生を描いた小説『氷島の漁夫』を出版した。エドマンド・ゴスはこの小説を「彼の全著作の中で最も有名で最もすばらしい作品」と評している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ピエール・ロティ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pierre Loti 」があります。




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