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ハウデン・ガンリー : ミニ英和和英辞書
ハウデン・ガンリー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハウデン・ガンリー ( リダイレクト:ハウデン・ガンレイ ) : ウィキペディア日本語版
ハウデン・ガンレイ[ちょうおん]

ジェームス・ハウデン・ガンレイ(''Jamus Howden Ganley'' 、1941年12月24日 - )は、ニュージーランドの元レーシングドライバー・元F1ドライバーである。
名前の日本語表記は「ハウテン/ホーデン/ホウデン」、「ガンリー/ギャンリー/ギャンレー」など複数存在する。
== 経歴 ==
ハミルトン生まれ。レースの世界に入ったきっかけは1955年に開催されたニュージーランドグランプリを観戦したことによる。
スポーツカー・イラストレイテッド〔の記者を経て1960年にレースを始める。
F3を経て1970年ヨーロッパF5000選手権に参戦、チャンピオンのピーター・ゲシンに次ぐシリーズ2位となる。
1971年南アフリカグランプリでBRMからF1デビューする。イタリアグランプリで5位に初入賞、優勝したゲシンとのタイム差は0.61秒という接戦だった〔『F1 Racing』2009年9月情報号、三栄書房、88頁。〕。アメリカグランプリで4位、非選手権レースのインターナショナル・ゴールドカップでは2位表彰台を獲得〔1971 Non-World Championship Formula One Race 、2014年11月13日閲覧。〕する活躍で、シーズン終了後にウォルフガング・フォン・トリップス・メモリアルトロフィーを獲得した〔。
1972年はドイツグランプリで4位、オーストリアグランプリで6位に入賞するが、オートスポーツ誌に掲載する写真撮影のためポリトイを走行させたことが原因でBRMを解雇された〔ブルース・グラント・ブラハム著、菅野佳子訳『チーム・ウィリアムズの全て』 ソニー・マガジンズ、1992年、83頁。〕。このほか、スポーツカーレースではル・マン24時間レースマトラからフランソワ・セベールと組んで出場。総合2位を記録した。
1973年イソ・マールボロに移籍。カナダグランプリで6位に入りこの年唯一のポイントを獲得した。このレースではセーフティカーがガンレイの前に出される〔『カーグラフィック』 1973年12月号、二玄社、189頁。〕〔『チーム・ウィリアムズの全て』、92頁。〕ミスにより順位が混乱、レース終了当初はガンレイの順位は2位とされていた〔『F1全史 1971 - 1975』 ニューズ出版、1993年、58頁。〕。1974年は開幕2戦をマーチで参戦したのち、日本の新興コンストラクターであるマキに加入した。イギリスグランプリとドイツグランプリにエントリーしたが、いずれも予選落ちで、ドイツグランプリでは予選中の事故により両足を骨折、結果的にF1出走はこれが最後となった。
1976年に元F1ドライバーのティム・シェンケンとレーシングチーム・コンストラクターのを設立し〔、1987年まで運営に関わった。1976年から1977年までマーチのテストドライバーを務めた〔。1978年のCan-Am出走を最後にレースを引退した〔。
2014年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードマキ・F101をドライブ〔『Racing On』 473、三栄書房、2014年、120 - 121頁。〕、健在ぶりを見せた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハウデン・ガンレイ」の詳細全文を読む




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