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ハインリッヒス・スクーヤ : ミニ英和和英辞書
ハインリッヒス・スクーヤ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハインリッヒス・スクーヤ : ウィキペディア日本語版
ハインリッヒス・スクーヤ[ちょうおん]

ハインリッヒス・スクーヤ(Heinrihs Leonhards Skuja 1892年9月8日-1972年7月19日)〔
Biographical Etymology of Marine Organism Names. S -- ヨーテボリ大学のデータベース (2011年4月27日閲覧)〕はラトビア出身の藻類学者植物学者。主に淡水産の藻類に関する重要な論文やモノグラフを数多く著し、生涯に700以上の新属や新種といった新タクサを記載した。ラトビア大学教授、ウプサラ大学名誉教授。1993年にはスクーヤを記念したハイリッヒス・スクーヤ生物科学賞がラトビア科学アカデミーによって設けられた〔IZCILIE LATVIJAS ZINĀTNIEKI, KURU VĀRDĀ NOSAUKTAS LATVIJAS ZINĀTŅU AKADĒMIJAS BALVAS -- ラトビア科学アカデミー・科学賞冠名研究者一覧 (2011年4月27日閲覧)〕。 名前は Heinrichs Skuja、Heinrich Skuja と綴られることもある。
==生涯〔Heinrihs Skuja -- Liis (”ラトビア科学データベース”)(2011年4月27日閲覧)〕==
1892年9月8日、今日では保養地として有名なラトビアの都市ユールマラのマヨリ(Majori)で生まれた。チャリティースクール( Labdarības skolu ) で学びながら自然や旅に興味を抱くようになり、10代でメキシコへ旅行した。この旅行から帰ると1910年-1912年まではラトビア高等学校(ラトビア大学の前身)の夜間コースで学んだ。その後再び海外に出かけ、スウェーデンドイツオランダなどを旅行した。1914年第一次世界大戦が勃発すると、油田で名高いバクーに行き製図技師( tehniķi-zīmētāju )として働き、1920年の春にラトビアに戻って軍の主任製図技官となった。
復員後、1922年からラトビア大学(「大学」となったのは1923年から)の数学・自然科学部の通学生となり、植物研究で優秀な成績を修めて1929年に卒業した〔平野(1977)では「1920年から1923年まで国民高等学校(People's High school)で生物学の講師をつとめる。1923年からリガの大学で研究を始め、1929年に学位を取得した。」となっているが、ここでは Liis の記述に沿った。〕。1929年から1932年までラトビア大学の植物分類研究所でデモンストレーター、翌1933年から1939年までは臨時講師を務め、1940年に正規の準教授となった。この時期の彼の精力的な調査研究はラトビアの藻類相研究に多大な貢献をした。すなわち、それまで200種程度しか記録されていなかったラトビアの藻類に、実に2000種以上もの追加記録がなされて約2300種に達した。その中には彼によって新たに命名記載された50ほどの新種・新変種、17の新属、2つの新科も含まれている。これらの論文の大部分はラトビア大学附属植物園( LU Botāniskā dārza ) の紀要である「 ''Acta Horti Botanici Universitatis Latviensis'' 」に掲載されたが、外国の雑誌に掲載されたものもある。これら一連の研究により1929年には文化財団賞( Kultūras fonda prēmija )を、1931年にはクリスヤニス・バロナ賞( Krišjāna Barona prēmija )を受賞した。
1943年10月14日付けで「 Pētījumi par Ķīnas, sevišķi tās dienvidrietumu daļas aļģu floru un veģetāciju (”中国、特にその南西部における藻類相と植生に関する研究”)」と題する論文で博士号を取得し、ラトビア大学の教授となって一般植物学、微生物学、隠花植物学などの講義を受け持った。
1944年ソ連軍によるバルト諸国占領が始まると、彼はスウェーデンに逃れた。ここではウプサラ大学に移って研究を続け、1947年に同学で植物学の準教授、1958年に名誉教授となり、1961年まで勤めた。この間にスウェーデン国内の淡水藻類の研究を精力的に行い、1948年と1956年にそれぞれ400ページ前後のスウェーデンの淡水植物プランクトンに関す大きな論文を書き、1962年にこれら淡水藻類研究における優れた業績によりウプサラ大学でビョールケン賞 ( Björken prize ) を受賞した。
1972年7月19日、2年前に患った卒中が十分に回復しないまま〔平野實 (1977) ”ノート 64. Heinrichs Skuja ハインリッヒス・スクーヤ (1892-1972)” ''in'' 廣瀬弘幸・山岸高旺(編) 『日本淡水藻図鑑』 (p.747) 内田老鶴圃, 東京. ISBN 4-7536-4051-5〕
79歳で逝去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハインリッヒス・スクーヤ」の詳細全文を読む




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