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ナリタブライアン : ミニ英和和英辞書
ナリタブライアン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ナリタブライアン : ウィキペディア日本語版
ナリタブライアン

ナリタブライアン(''Narita Brian''、1991年5月3日 - 1998年9月27日)は日本競走馬種牡馬中央競馬史上5頭目の三冠馬。愛称は「ブライアン」「シャドーロールの怪物」。
1993年8月にデビュー。同年11月から1995年3月にかけてクラシック三冠を含むGI5連勝、10連続連対を達成し、1993年JRA賞最優秀3歳牡馬〔JRA賞の部門名はいずれも当時の名称。〕、1994年JRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬〔に選出された。1995年春に故障(股関節)を発症したあとはその後遺症から低迷し、6戦して重賞を1勝するにとどまった(GI は5戦して未勝利)が、第44回阪神大賞典におけるマヤノトップガンとのマッチレースや短距離戦である第26回高松宮杯への出走によってファンの話題を集めた。第26回高松宮杯出走後に発症した屈腱炎が原因となって1996年10月に競走馬を引退した。競走馬を引退したあとは種牡馬となったが、1998年9月に破裂を発症し、安楽死の措置がとられた。
半兄1993年JRA賞年度代表馬ビワハヤヒデがいる。1997年日本中央競馬会 (JRA) の顕彰馬に選出。
''※馬齢は旧表記に統一する。''
== 生涯 ==

=== 誕生・デビュー前 ===
ナリタブライアンは1991年5月3日北海道新冠町にある早田牧場新冠支場で誕生した。同牧場の経営者早田光一郎や場長の太田三重によると、誕生後しばらくはこれといって目立つ馬ではなかった〔名馬列伝ナリタブライアン、116頁。〕〔橋本1997、13-14頁。〕が、次第にその身体能力が鍛錬にあたった牧場スタッフによって高く評価されるようになった。1992年10月以降資生園早田牧場新冠支場で行われた初期調教において調教を担当した其浦三義は、バネや背中の柔らかさ、敏捷性において半兄のビワハヤヒデをはるかに超える素質を感じたと述べている〔橋本1997、34頁。〕。また早田によると、初期調教が行われていた時期に複数のに牧場内の坂を上り下りさせる運動をさせたころ、1頭だけ全く呼吸が乱れなかった〔。一方で調教中に水たまりに驚いて騎乗者を振り落とすなど臆病な気性もみせた〔橋本1997、35頁。〕〔なお、デビュー前の1992年3月から10月にかけては資生園早田牧場えりも分場において昼夜放牧によって鍛錬された。(名馬列伝ナリタブライアン、117頁。)〕。ナリタブライアンは庭先取引によって山路秀則に購入され、中央競馬調教師大久保正陽の厩舎で管理されることが決定した。早田によるとナリタブライアンの馬主が山路に、調教師が大久保に決定した経緯は以下の通りである。まず家畜取引工藤清正の仲介により大久保に紹介され、大久保が山路に購入を打診。山路と大久保が資生園早田牧場を訪れ購入が決定した。大久保は後に「ビワハヤヒデの活躍が早ければナリタブライアンは自分のところにはやってこなかった」と述懐している〔橋本1997、27-32頁。〕。取引価格は山路によれば「2400万か2500万」円から「100万くらい」値引きしてもらった額であったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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