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ナヒチェヴァン自治共和国 : ミニ英和和英辞書
ナヒチェヴァン自治共和国[なひちぇヴぁんじちきょうわこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

自治 : [じち]
 【名詞】 1. self-government 2. autonomy 
: [ども]
  1. (suf) indicates plural - humble referring to oneself, disdainful referring to others 
共和 : [きょうわ]
 【名詞】 1. republicanism 2. cooperation 
共和国 : [きょうわこく]
 【名詞】 1. republic 2. commonwealth 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

ナヒチェヴァン自治共和国 : ウィキペディア日本語版
ナヒチェヴァン自治共和国[なひちぇヴぁんじちきょうわこく]

ナヒチェヴァン自治共和国(ナヒチェヴァンじちきょうわこく、)は、アゼルバイジャン飛地である自治共和国。過去に、王国、帝国、イスラム教国、汗(ハン)国などになった経緯から名前は何度も変更されている(Nakshijahan、Nuhchikhan(ノアが降りた場所)、Nesheva、Nakhijevanなど)。
1991年までは、ナヒチェヴァン自治ソビエト社会主義共和国としてアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部だった。
5,500 km²のこの地域はアルメニア (221km) 、トルコ (9km) 、イラン (179km) に接している。首都はナヒチェヴァン市である。
==歴史==
ナヒチェヴァン市は、ナクスアナ (Naksuana) という名前でプトレマイオス天動説の中で最初に言及された〔Encyclopedia of Brokgauz and Efron, "Nakhichevan" "NAKHICHEVAN", Volume V19, Page 156 of the 1911 Encyclopedia Britannica 〕(古代ギリシャ語で「甘水の土地」の意)。
ナヒチェヴァンで見つかった最も古いアーティファクト新石器時代に遡る。
この地域は紀元前8世紀から紀元前7世紀の間、マンナエウラルトゥ およびメディアに属し、紀元前6世紀にはアケメネス朝に属した。そしてその後、大アルメニア王国の一部になった。5世紀にはサーサーン朝ペルシア623年には東ローマ帝国7世紀半ばにアラブ人に征服され、11世紀に、セルジューク朝の管理下になった。
12世紀、セルジューク朝のスルターン・マスウードによって兄弟スライマーン・シャーアタベクとなったは、1136年に現在のクラ川流域であるアッラーン地方とイラン高原のアーザルバーイジャーンの両地方をイクターとして分封され、以降ナヒチェヴァン市は四代89年に渡ってアゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の中心地として、アーザルバーイジャーン地方の州都タブリーズマラーゲと並び発展した〔Encyclopedia Iranica, "Atabakan-e Adarbayjan" , Saljuq rulers of Azerbaijan, 12th–13th, Luther, K. pp. 890-894.〕。モミネ・ハトゥン(イルデニズ朝の当主でシャムスッディーン・イルデニズの長男、大アタベクのジャハーン・パフラヴァーンの妻)の壮大な12世紀の霊廟は、現代のナヒチェヴァンの主な魅力である。イルデニズ朝の宮廷では文芸運動が活発化し、『ライラとマジュヌーン』などペルシア語文芸の巨匠として有名なニザーミー・ギャンジャビーらが同王朝の庇護のもと活躍している。
13 - 14世紀、この領域はモンゴル帝国によって征服されてイルハン朝の領土となり、さらにティムールによって侵略され、15世紀には、黒羊朝白羊朝の一部になった。
16世紀テュルク諸語を使うイスラム王朝サファヴィー朝に管理された。14世紀から18世紀にかけては、この地理的位置のためにペルシアオスマン帝国の間の戦争が絶えなかった。1604年、サファヴィー朝のアッバース1世はナヒチェヴァンとその周辺地域に焦土作戦を決心し、民族性または宗教にかかわらずほとんどの地元住民に対して家を捨てペルシアへ移動する事を強要した〔Encyclopedia Iranica. Kangarlu .〕。ほとんどの居住者が、もとのジュルファ(略奪され焼かれたアルメニアの町)の出身だったので、エスファハーンの近隣にニュー・ジュルファと命名された町に住み着いた。
は、ペルシアの統治者であったナーディル・シャー1747年の死後に出現した。しかし、2つの(第一次ロシア・ペルシア戦争第二次ロシア・ペルシア戦争)を経て、1828年トルコマンチャーイ条約 (Turkmanchai Treaty) でロシアの所有(:en:Armenian Oblast)となり、ナヒチェヴァン・ハン国は消滅した。その後の領域と融合され新しいアルメニアの地域の一部となり、1849年にロシア帝国のと改名された。ナヒチェヴァンは、ロシア帝国のエリヴァニ県のとなった。
1917年二月革命後は、ロシア臨時政府のの権力下にあった(ザカフカース民主連邦共和国参照)。1918年ミュサヴァト党は、アゼルバイジャン民主共和国の独立を宣言した。1918年後期、英国の軍隊によってナヒチェヴァンは占領されたが、1920年赤軍に占められた後、7月28日アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国は宣言され、その支配下になった。
1991年8月30日、アゼルバイジャン共和国の独立宣言後は、その国の一部としてナヒチェヴァン自治共和国として現在に至る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ナヒチェヴァン自治共和国」の詳細全文を読む




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