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ディートリヒ・ボンヘッファー : ミニ英和和英辞書
ディートリヒ・ボンヘッファー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ディートリヒ・ボンヘッファー : ウィキペディア日本語版
ディートリヒ・ボンヘッファー[ちょうおん]

ディートリヒ・ボンヘッファーDietrich Bonhoeffer, 1906年2月4日 - 1945年4月9日)は、ドイツ古プロイセン合同福音主義教会(ルター派)の牧師20世紀を代表するキリスト教神学者の一人。
第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。その後、暗殺計画は挫折。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐ国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)により、フロッセンビュルク強制収容所で刑死。ベルリン州立図書館の一階には、絞首台のロープが首にかけられたボンヘッファーを描いた大理石の胸像が展示されている。
== 生涯 ==

ドイツのブレスラウ(現在のポーランドヴロツワフ)で、精神医学の権威で1911年以降ベルリン大学で医学部教授を務めた父カール・ボンヘッファー (Karl Bonhoeffer) の家庭に、8人兄弟の6番目として生まれた。
1923年テュービンゲン大学神学部に入学。1924年にベルリン大学神学部に入学。
1927年(21歳)、学位論文「聖徒の交わり」(''Communio Sanctorum'') により最優等の成績でベルリン大学より神学博士号取得。
1928年には、 バルセロナで副牧師(牧師補)となり、翌1929年には、ベルリン大学助手となった。
1930年から1931年にかけてアメリカ合衆国に留学し、ニューヨークのユニオン神学校ラインホルド・ニーバーの下で学ぶ。この滞在中に、ハーレム地区アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の共同体と接触する機会があり、アフリカ系アメリカ人に対する差別の問題に触れる。その後、マハトマ・ガンディーの思想からの影響と共に、アメリカでの経験が福音の社会的側面に対してボンヘッファーの考えが変わり、神学者として出発する。その後キリスト者として、やがて同時代人として生きることを選ぶ一つの契機となったと考えられる。
1931年に帰国後、ベルリン大学講師となる。
1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーが宰相に就任。ナチ党の政権取得直後、ボンヘッファーはラジオ放送でナチ党の「指導者原理」を露骨に批判したが、放送は強制的に中断された。
同年7月には、ユダヤ人の公職からの追放を目的とした「職業官吏再建法」(:de:Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums)が制定され、教会にもいわゆる「アーリア条項」が適用されるようになった。その後、秋までにはドイツ的キリスト者 (Deutschen Christen) と呼ばれるナチスの追随者がドイツのプロテスタント教会で支配的になるが、こうした動きに対抗し、9月21日、ボンヘッファーはマルティン・ニーメラーらと牧師緊急同盟を結成。これが後の告白教会に繋がる。ただし、アーリア条項に反対した当時の他の教会指導者たちとボンヘッファーが全く同一の考えを持っていたわけではない。他の指導者たちにとって反対すべき主要な理由は、教会の自由が侵害されるという点であるが、ボンヘッファーは問題の重大性を深く認識していたことが差異である。
同年、ロンドンのドイツ人教会の牧師に着任し、教会闘争において最も親しい友人となる世界教会会議議長チチェスターの主教ジョージ・ベルに出会う。
1934年4月22日、告白教会結成。5月末には第1回全国告白教会総会が開かれ、6月にはカール・バルト起草による「バルメン宣言」が全会一致で可決された。
同年4月、ロンドンから戻り、告白教会による非合法の牧師養成所(後にフィンケンヴァルデに移る)の所長となる。ただし、ナチズムとの妥協を図ろうとする穏健派が告白教会内でも多数派であり、こうした思想的相違から、告白教会内でのボンヘッファーの影響は大きくなかった。この頃、後の婚約者マリア・フォン・ヴェーデマイヤー (Maria von Wedemeyer) と知り合っている。
1936年8月に、ナチスに対する反対により、ベルリン大学から解任される。
1937年7月1日、ニーメラー逮捕。同年9月、フィンケンヴァルデの牧師養成所がゲシュタポにより閉鎖される。
1939年6月2日にニューヨークに向けて出発。アメリカではニーバーらがボンヘッファー亡命のための準備を整えていた。しかし、わずか1か月後にはドイツに帰国することを決断する。
1939年、ドイツ国防軍の将校を中心とした反ヒトラーグループ(ゲシュタポによって黒いオーケストラと名付けられる)に参加。ボンヘッファーの役割は、グループの精神的支柱となることのほかに、各国のエキュメニズムとの連絡、連合国側への情報提供、及び和平交渉であった。
1943年1月に、マリア・フォン・ヴェーデマイヤーと婚約。しかし、数か月後の4月5日に、ユダヤ人の亡命を援助したことにより逮捕。
1944年7月20日、黒いオーケストラによるヒトラー暗殺計画は失敗に終わった(7月20日事件)。多くの関係者が処刑、または逮捕され、ボンヘッファーの兄クラウス、義兄リューディガー・シュライヒャーも逮捕された。
1945年4月に黒いオーケストラの一員であったヴィルヘルム・カナリス提督の日記からボンヘッファーの関与が発覚。わずか数日後の4月8日、ボンヘッファーはフロッセンビュルク強制収容所へ移送されて死刑判決を受け、翌日絞首刑に処された。同日には、義兄ハンス・フォン・ドホナーニ、カナリスらも処刑された。兄クラウス、義兄リューディガーも4月23日にベルリンで銃殺された。ヒトラーが総統地下壕自殺し、ナチス体制が崩壊したのはボンヘッファーの刑死した3週間後のことだった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディートリヒ・ボンヘッファー」の詳細全文を読む




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