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チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード : ミニ英和和英辞書
チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード : ウィキペディア日本語版
チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード[ちょうおん]

サー・チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードSir Charles Villiers Stanford, 1852年9月30日 - 1924年3月29日)はアイルランド人の作曲家、教師、指揮者である。ダブリンの裕福で音楽的教養の高い一家に生まれたスタンフォードは、ライプツィヒベルリンで音楽教育を受ける以前はケンブリッジ大学で学んでいた。そのため、彼は国際的に著名な演奏家を招きケンブリッジ大学音楽部との共演を実現させることで、同楽団の地位を引き上げる立役者となった。
スタンフォードはまだ学部生だった時期に、トリニティ・カレッジのオルガン奏者に任命されている。1882年、29歳で王立音楽大学創設メンバーの一員として教授に就任した彼は、その後生涯にわたって同大学の作曲科で教鞭をとった。1887年からはケンブリッジ大学の音楽科教授も兼任した。教育者として、スタンフォードはモダニズムに懐疑的な姿勢を示しており、彼の講義は主にブラームスの音楽が好例となるような古典的な原理に基づいて行われた。スタンフォード門下からは、彼自身をも凌ぐほどの名声を得た、ホルストヴォーン・ウィリアムズなどといった作曲家が輩出した。また彼はバッハ合唱団〔訳注:ロンドンを本拠地とする合唱団。ロンドンや各地で演奏を行っており、歌い手には3年ごとにオーディションが課される。(Bach Choir)〕やリーズ音楽祭〔訳注:リーズの市民ホール(en)の完成を祝って1858年に始まった音楽祭。1874年からは3年ごとに開催され、1985年まで続いた。(Leeds triennial music festival)〕の指揮者であった。
スタンフォードは7つの交響曲を含むかなりの数の楽曲を作曲しているが、最も記憶されているのは聖公会伝統の様式による、教会での演奏用に書かれた合唱曲だろう。彼はオペラも精力的に作曲したが、完成させた9つのオペラは一般的なレパートリーとはなり得ていない。批評家の中にはパリーマッケンジーなどとともに、スタンフォードを英国音楽の復活の立役者であると見る者もいる。しかしながら、彼の音楽は19世紀の最後の20年においてこそ大きな成功を収めたものの、その後20世紀に入るとエルガー並びに彼自身の門弟たちの活躍の陰に隠れてしまうことになるのである。
== 生涯 ==

=== 幼少期 ===

スタンフォードはダブリンの生まれで、ジョン・ジェームズ・スタンフォード(John James Stanford)の二番目の妻であるメアリ(Mary(旧姓ヘンHenn))との間に生まれた唯一の息子である〔Dibble, Jeremy. "Stanford, Sir Charles Villiers" , ''Grove Music Online'', Oxford Music Online, accessed 11 December 2011 〕。父のジョンはダブリンでは名の通った弁護士、大法官府裁判所の証人尋問官、そしてミース州の官吏であった〔"Stanford, Sir Charles Villiers" , ''Who Was Who'', A & C Black, 1920–2008; online edition, Oxford University Press, December 2007, accessed 11 December 2011 〕 。彼の妻はアイルランドの大法官高等裁判所長であったウィリアム・ヘン(William Henn)の三女である〔Rodmell, p. 9〕。夫妻はともにアマチュアの音楽家であった。夫のジョンはチェリストであるとともに、1847年メンデルスゾーンの「エリヤ」のアイルランド初演時のタイトル・ロールを務めるほどのバス歌手でもあった〔"Charles Villiers Stanford" , ''The Musical Times and Singing Class Circular'', Vol. 39, No. 670 (December 1898), pp. 785–793 〕。妻のメアリはアマチュアのピアニストで、ダブリンで行われるコンサートでは協奏曲ソリストを務めるほどであった〔。
スタンフォードは少年期、ダブリンの私立学校で特筆すべきところのない一般的な教育を受けたが、学校を経営していたヘンリー・ティルニー・バセット(Henry Tilney Bassett)は他の学問を差し置いて西洋古典学に没頭していた人物であった〔Willeby, p. 264〕。スタンフォードの両親は彼の早熟さに目をつけ、ヴァイオリンピアノオルガン作曲というように次々教師を雇い、彼の音楽的才能を伸ばそうとした。それら教師のうち三人はイグナーツ・モシェレス門下であり、エリザベス・ミーケ(Elizabeth Meeke)もその一人だった。スタンフォードは後にこう回想している。「私が12歳になる前、彼女は私に初見で演奏することを教えた。(中略)彼女は毎日レッスンの最後に、私にショパンマズルカを一曲弾かせたが、間違ってもそこで止まることを決して許さなかった。(中略)52曲のマズルカを全て終えたとき、私は大抵どんなレベルの曲でもかなり指を楽な状態にして取り組めるようになっていた〔Stanford (1914), p. 58〕。」少年スタンフォードの最初期の作品の一つである行進曲変ニ長調は、3年後にダブリン王立劇場〔訳注:違法な上演を行っていないという王室からの特許を得ていた劇場を「王立劇場」と称し、ダブリンには4か所の王立劇場がある。そのいずれであるかは原文からは明らかでない。(Theatre Royal, Dublin)〕でのパントマイムの中で演奏された〔Rodmell, p. 28〕。9歳の時、彼は客を招待してのピアノリサイタルを行い、ベートーヴェンヘンデル、メンデルスゾーン、モシェレス、モーツァルトバッハの作品を演奏した〔。彼の歌曲の一つはダブリン大学の合唱部に採りあげられ、好評を博した〔"University of Dublin Choral Society", ''Freeman's Journal and Daily Commercial Advertiser'', 16 February 1867, p. 3〕。
1860年代には、ダブリンに国際的な有名人が時折訪れた。そのため、スタンフォードはヨーゼフ・ヨアヒムアンリ・ヴュータンアデリーナ・パッティといった著名な音楽家の演奏を耳にすることができた〔Stanford (1914), pp. 61–62〕。ロンドンからは毎年イタリアオペラの会社が興業に訪れており、ジュリア・グリジやジョヴァンニ・マリオ〔訳注:1810年生まれ、イタリアテノール歌手。当時は熱狂的な人気を集めたスター歌手であった。妻はジュリア・グリジ。(Giovanni Matteo Mario)〕、後年はテレーズ・ティーチェンス〔訳注:いずれもオペラ歌手。〕によって率いられたこの団体は、スタンフォードに一生涯残るオペラの妙味を味わわせたのであった。10歳の夏、彼は両親に連れられてロンドンへ赴き、そこでメイフェアに住む母の叔父の元に滞在した〔Stanford (1914), p. 70〕。彼はそこで、作曲家であり教師でもあったアーサー・オリアリー(Arthur O’Leary)の作曲の講義を受けると同時に〔Firman, Rosemary. "Stanford, Sir Charles Villiers (1852–1924)" , ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, 2004, accessed 11 December 2011 〕、王立音楽アカデミーのピアノ科教授であったエルンスト・パウアー〔訳注:オーストリアのピアニストでモーツァルトの実子であるフランツ・クサーヴァー・モーツァルトにピアノを、ジーモン・ゼヒターに作曲を師事した。(Ernst Pauer)〕にピアノを習った〔。彼がダブリンへ戻ると間もなく名付け親はアイルランドを去ってしまい、彼はヘンリエッタ・フリン(Henrietta Flynn)のレッスンを受けることになる〔Dibble, p. 25〕。この人物もライプツィヒ音楽院でのモシェレスの教え子であった。その後、聖パトリック大聖堂オルガニストであったロバート・スチュアート(Robert Stewart)、また三人目となるモシェレス門弟のミシェル・クオーリィ(Michael Quarry)からも教えを受ける〔Stanford (1914), p. 75〕。二年後、二度目となるロンドン滞在中に作曲家のアーサー・サリヴァンと、音楽管理者で作家であるジョージ・グローヴに出会い、彼らは後々スタンフォードの人生において重要な人物となるのである〔。
父のジョンは自らと同じく息子に法律の専門家になってもらいたいと願っていたが、スタンフォードの音楽で生きていきたいという希望を受け入れた〔Stanford (1914), p. 103〕。ただし、音楽留学したいのであれば、その前に一般的な大学教育を修了すること、という条件を付けた〔。スタンフォードはケンブリッジ大学のトリニティ・ホール〔訳注:ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つ。1350年創立で、ケンブリッジ大学で5番目に古いカレッジ。(Trinity Hall)〕で西洋古典学の奨学金を得ようとしたが、うまくいかなかった〔Stanford (1914), p. 105〕。しかし、ケンブリッジ大学のクイーンズ・カレッジ〔訳注:ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つ。1448年創立。(Queens' College)〕でオルガンの奨学金を得ることができ、さらに後になって西洋古典学でも奨学金を得られた。ケンブリッジへ向かうことになるまでに、彼は宗教的なもの、非宗教的なものの両方の形式の合唱曲と、管弦楽作品(チェロと管弦楽のためのロンドと演奏会用序曲)を含むかなりの数の楽曲を書いていた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード」の詳細全文を読む




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