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タイ・カッブ : ウィキペディア日本語版
タイ・カッブ

“タイ”タイラス・レイモンド・カッブTyrus Raymond "Ty" Cobb, 1886年12月18日 - 1961年7月17日)は、アメリカ合衆国ジョージア州ナロウズ出身のプロ野球選手外野手)。アメリカ野球殿堂入りの第一号選手である。
1920年以前の本塁打が少なかったデッドボール時代の代表的な選手で、ジョージア州の出身であったことから「ジョージア・ピーチ(The Georgia Peach)」のニックネームで呼ばれた〔「ジョージア・ピーチ」は「南部魂」の意で、アメリカ南部の闘争心こもったプレイヤーという意味合いを示す。このニックネームは、ジョージアの特産物であり象徴的な果実であったモモ(ピーチ)に由来している。〕。1909年にはMLB史上唯一の打撃全タイトル制覇を達成。ピート・ローズに破られるまでメジャーリーグ歴代1位の4191本の安打を打ち、通算打率.366で首位打者を12回獲得するなど数々のMLB記録を保持している。選手の権利というものを最初に訴えた選手でもある一方、悪評も有名な人物であり、「最高の技術と最低の人格」「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」とも評された。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
1886年12月、ジョージア州ナロウズで3人兄弟の長男として生まれ、ロイストンで育つ。母親であるアマンダは12歳で結婚し、15歳でカッブを出産した。父親のウィリアム・カッブは教師(数学者)から校長、市長、上院議員、牧師を務めるなど厳格な教育者で、土地の名士として有名な人物であった。
カッブ家は名家として知られ、有名な人物を多数輩出していた(アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンとも姻戚関係があった)。そういった特別な目で見られることをひどく嫌ったカッブは、14歳頃から父親とは一切関係のないスポーツである野球に興味を持ち、熱中するようになった。父親は、息子がごろつきになるのではないかと心配し、野球をしていたカッブに、「偽りの道は地獄に通じる。だから、常に正義をふまえ、正直に謙虚にふるまいなさい」と口癖のように言い聞かせていた。カッブは、その言葉通り大きなトラブルもなく成長していった。
1904年、カッブは自らの実力を過剰に評価した手紙を新聞社に送り、マイナーリーグであるオーガスタ・ツーリスツと契約した。この際、野球をすることに反対していた父親を、夜中の3時までかけて説得した。契約し、家を出て行くとき、父親から「失敗して戻ってくるな。自分が信じた道なんだ、必ず成功しろ」と言われたという。
オーガスタでの2年目の1905年、18歳にしてマイナーリーグトップとなる打率.326を残し、頭角を現していたのだが、同年8月、寮生活中に父親が母親にライフルで撃たれて死亡する事件が起こる(詳細は#両親の事件についてを参照)。その後デトロイト・タイガースにトレードで移籍し、父親の葬儀を終えた10日後にメジャーに昇格したカッブだが、そこでの恒例の新人歓迎(現在はいたずら程度のものであるが、当時は嫌がらせだったとも)でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こした。8月30日ニューヨーク・ヤンキース前身のハイランダーズ戦でMLBデビュー。同年の成績は打率.240で終わっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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