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ソロン : ミニ英和和英辞書
ソロン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ソロン : ウィキペディア日本語版
ソロン

ソロン(、紀元前639年頃 - 紀元前559年頃)は、古代アテナイ政治家立法者詩人、本名は不明。当時のアテナイにおいて、政治・経済・道徳の衰退を防ごうとして法の制定に努めたことで有名である(ソロンの改革と呼ばれる)。改革は短期間のうちに失敗する。しかし、アテナイの民主主義の基礎を築いたとして、しばしば高い評価を受けている。〔Stanton, G.R. ''Athenian Politics c800–500BC: A Sourcebook'', Routledge, London (1990), p. 76.〕〔Andrews, A. ''Greek Society'' (Penguin 1967) 197〕〔E. Harris, ''A New Solution to the Riddle of the Seisachtheia'', in 'The Development of the Polis in Archaic Greece', eds. L.Mitchell and P.Rhodes (Routledge 1997) 103〕〔Aristotle ''Politics'' 1273b 35–1274a 21.〕
ソロンについての知識は、紀元前6世紀前半のアテナイにおける文章や考古学的証拠の不足によって制限されている。〔Stanton G.R. ''Athenian Politics c800–500 BC: A Sourcebook'', Routledge, London (1990), pp. 1–5.〕〔Aristotle ''Politics'' 1273b 35–1274a 21〕 愛国的なプロパガンダとして、そして、彼の政治に関わる改革の弁護において、彼は詩を楽しみながら書いた。彼の作品は、断片として残っているだけである。それらは、後の作家たちによる改ざんによって特徴付けられているように見え、断片が誤って彼の作とされた可能性もある(#改革者として、詩人としてを参照)。ヘロドトスプルタルコスのような古代〔古代"ancient"は西洋史において、記録された人間の歴史~西ローマ帝国の滅亡(紀元476年頃)までの期間を指す。「同時代」の作家といってもソロンの活動期間からヘロドトスは100年以上、プルタルコスに至っては600年以上後の人物であり、彼らも伝聞に頼ってソロンを知ったことに注意。〕の作家が主な情報源であるが、彼らは、歴史学がまだ学問の一分野として成立していない時代に、しかもソロンの死からずいぶんたってから、ソロンについて書いている。アイスキネスのような4世紀の演説者はソロンの時代からかなり時が経っていたが、彼らのもつ全ての法律をソロンのおかげと考えた。〔V.Ehrenberg, ''From Solon to Socrates: Greek History and Civilization'', Routledge (1973) 71〕 考古学は、断片的に記されたものの形において、他のものには少ない、ソロンの時代のかすかな傾向を突き止めた。学者たちの何人かは、ソロンと彼の時代の私たちの「知識」は大部分が不確かな証拠に基づいた架空の概念であるとしているが、〔W.Connor et al. ''Aspects of Athenian Democracy (Copenhagen, Museum Tusculanam P., 1990) 71–99〕〔C.Mosse, ''Comment s'elabore un mythe politique: Solon'' Annales ESC XXXIV (1979) 425–437〕一方で、他の学者たちは真実の知識の本質的な部分はまだ獲得可能であると信じている。〔P.Rhodes, ''The Reforms and Laws of Solon The Wise: an optimistic view'' in 'Solon of Athens: new historical and philological approaches', eds. J.Blok and A.Lardinois (Brill, Leiden 2006)〕 歴史に基づく論争の限界と本質の試金石として、ソロンとその時代は、特に歴史の研究者に対し関心を引いている。〔Stanton G.R. ''Athenian Politics c800–500BC: A Sourcebook'', Routledge, London (1990), page 2〕
哲学者プラトンはソロンの遠縁にあたる。具体的な関係は、(画像)ソロン-クリティアス-プラトンの系図参照。
また、ギリシア七賢人の一人として知られている。
==ソロンの改革の背景==
ソロンの時代、多くの古代ギリシアの多くの都市国家(ポリス)は部分的な利益を代表し権力を握る僭主(せんしゅ)、日和見主義的な貴族たちの登場を見ることになった。ペロポネソス半島の北部、コリントの北西の都市シキュオンでは、クレイステネスが、イオニア人の少数派を代表して権力を強奪した。メガラでは、がその土地の寡頭制の支配者たちの敵として権力者の地位についた。紀元前632世紀、テアゲネスの義理の息子であるアテナイの貴族は、アテナイにおける不成功に終わった権力強奪を企てた。一方で、ソロンは仲間の市民たちのために平和的かつ公平なやり方で、意見の不一致を解決できる知恵を持っているという理由で、選挙で一時的に独裁的な権力を勝ち取った。〔Plutarch ''Solon'' 14 s:en:Lives (Dryden translation)/Solon#14〕 古代の資料によると、〔Plutarch ''Solon'' 14.3 s:en:Lives (Dryden translation)/Solon#14〕〔''Athenaion Politeia'' 1.5 (e.g. Kenyon's translation s:en:Athenian Constitution#5)〕紀元前594-3年にソロンが執政官(エポニュモス・アルコン)に選ばれた時に、これらの権力を得たとされる。さらに近代の学者の中には、以下のように考える者もいる。それは、ソロンが執政官になった何年か後にこれらの権力が実際に授けられ、その後アレオパゴスローマにおける元老院に類する機関)のメンバーとなり、おそらく(貴族の)仲間たちからより尊敬される政治家となった、ということである。〔Stanton G.R. ''Athenian Politics c800–500BC: A Sourcebook'', Routledge, London (1990), p. 36.〕〔Hignett C. ''A History of the Athenian Constitution to the End of the Fifth Century B.C.'' (Oxford 1952).〕〔Miller, M. ''Arethusa'' 4 (1971) 25–47.〕
ソロンの時代を特徴づける社会政治の大変動は、古代から現代までの歴史家たちによって、多様に解釈されている。ソロンの時代のアテナイについて、2人の現代の歴史家たちは3つの明確な歴史的要因を、極めて異なる対立関係を強調しながら、特定している。つまり、「経済とイデオロギーの対立」、「地域的対立」、「貴族の一族間の対立」である。〔Stanton G.R. ''Athenian Politics c800–500BC: A Sourcebook'', Routledge, London (1991), pp. 3–4.〕〔Walters, K.R., ''Geography and Kinship as Political Infrastructures in Archaic Athens''
これらの要因は、関連する問題についての見通しのための便利な基礎を与えてくれる。
*「経済とイデオロギーの対立」は、古代のどの資料にも共通する要因である。これに類する要因は、ソロンの詩の中から現れている(例えば、#改革者として、詩人としてを参照)。そこには、不節制で手に負えない2つの派閥の間で、高潔な仲裁者の役割に身を投じるソロンの姿がある。3世紀後アリストテレス学派の著者が書いた『アテナイ人の国政』 ''Athenaion Politeia''が、興味をそそるような例証こそ無いが、この要因を取り上げている。
「……長期間にわたる、貴族と一般民衆との間のいさかいがあった。その理由は、彼らの政治制度があらゆる面で寡頭制を採り、妻や子供と共に貧しい人々が金持ちに奴隷として仕えていたからである。全ての土地が、少数者の手にあった。そしてもし人々が賃貸料を払わなければ、彼らは自身と、彼らの子供たち共々、奴隷として差し押さえられなければならなかった。ソロンの時代まで、全ての貸付金の担保は、借主の人間であった。ソロンは一般民衆にとって、第一の擁護者だった。」〔''Athenaion Politeia'' 2.1–2.3 s:en:Athenian Constitution#2.〕
上記においては、ソロンは民衆運動の熱心な支持者として示されているが、一方で、ソロン自身の詩によれば、彼はむしろ対立する派閥の仲裁者であったと判断される。プルタルコスが1世紀後半ないしは2世紀の前半に、書いているところによれば、より重要な他の例が古代の歴史的な報告に現れている。
「アテナイは、政治制度についての再発した争いによって引き裂かれている。都市は、その領土に存在する地域的な区分と同じ数の政党に分割されてしまった。丘に住む人々の政党は、ほとんどが民主主義に賛成し、平地に住む人々の政党はほとんどが寡頭制に賛成した、しかし一方で第三のグループである海岸に住む人々は、他の二つの混成体を好み、障害物となっており、他のグループが支配権を得ようとするのを妨害していた。」〔Plutarch ''Solon'' 13 s:en:Lives (Dryden translation)/Solon#13
この古代の歴史の記述は、政治プロセスのより洗練された理解(の正しさ)を証明する。- ソロンの報告にある2つの面は、互いに地域的な基礎と政治体の基盤を持つ、3つの政党を作った。プルタルコスは次に繰り返して言う、通常の古代の描写は、一方に残忍な地主をもう一方に悲惨な賃借人がいるというものである、と。しかし、どのようにこの「持てるもの」と「持たざるもの」の間の芝居がかった争いが3つの地域的なグループと適合するのか?
*「地域的対立」は近代の学者の間で共通に見出されるテーマである。〔B. Sealey, "Regionalism in Archaic Athens," ''Historia'' 9 (1960) 155-180.〕〔D.Lewis, "Cleisthenes and Attica," ''Historia'' 12 (1963) 22-40.〕〔P. Rhodes, ''A Commentary on the Aristotelian Athenian Politeia'', Oxford Univ. Press (1981) 186.〕〔P. Rhodes, ''A History of the Greek City States'', Berkeley (1976).〕
「地域への忠誠心によって結びつけられ富裕な土地所有者によって先導される地域的グループが、その間で引き起こす争いの1つが現れた新しい事態である。これらの目的は、アテナイの中央政府の制御権を握りアッティカ地方から他の地域の競争相手たちを政府の力を使って支配することである。」〔Walters K.R. ''Geography and Kinship as Political Infrastructures in Archaic Athens''
アテナイが所有するような比較的広い領土においては、地域的な派閥主義が生じることは避けることができなかった。ほとんどの都市国家において、農業経営者たちは便利に街に滞在したり、自分の田畑へ行ったりすることが毎日のようにできた。歴史家トゥキディデスによると、他方で、ほとんどのアテナイ人はペロポネソス戦争が生じる直前までは、地方に定住を続けていた。〔Thucydides 2.14 - 2.16.〕威嚇と近隣国のいくつかの再入植と残りの国の奴隷化を通じてスパルタが支配権を得たラコニア(地方)において、広い領土における地方主義の効果は見ることができた。同様に、ソロンの時代のアッティカも見苦しい(国家の)溶解に向けて進んでいるように見えた。アッティカは、ヘイロタイ(奴隷身分)の状態へと至る危険にさらされていたのである。〔Andrews, A. ''Greek Society'' (Penguin 1967) 118.〕
*「貴族の一族間の対立」は、学者によって近年発展させられたテーマである。それは親類関係にあるグループの政治的な重要性の評価に基づいている。〔〔Stanton G.R. ''Athenian Politics c800-500BC: A Sourcebook'', Routledge, London (1991), pages 3-4.〕〔Frost, "Tribal Politics and the Civic State," ''AJAH'' (1976) 66-75.〕〔Connor, ''The New Politicians of Fifth Century Athens'', Princeton (1971) 11-14.〕〔Cary, ''Cambridge Ancient History'', Cambridge Univ. Press (1925) 3:582-586.〕〔Ellis, J. and Stanton, G., ''Phoenix'' 22 (1968) 95-99.〕この説明によると、親族間のつながりは、地域的な忠誠よりむしろ強く、アルケイック期〔(紀元前6-7世紀頃)〕のアテネにおける出来事に決定的な影響を与えていた。アテナイ人はと(兄弟関係)という小地域にのみ属しているのではなく、広範囲の家族つまり(民族)に属しているのである。これらの相互接続される親族の構成単位が、貴族的一族を頂点とする階層的な構造を強化した、ということについて(研究者の間で)議論が戦わされてきた。〔〔Walters, K.R., ''Geography and Kinship as Political Infrastructures in Archaic Athens'' .〕したがって、貴族的一族の間で対立関係が地域的なきずなに関わりなく、社会の全階層に関わっていた可能性がある。その場合、強い貴族と、対立している弱い構成員(ないしはおそらく同じぐらい反抗的な構成員)との間での争いが、富裕層と貧困層の間の争いと同じであることになる。多くの世紀を超えて、相反する物語ないしは様々なやり方で解釈される複雑な物語へと、ソロンの時代のアテナイの歴史的な記述は展開してきた。より多くの証拠が蓄積するにつれて、そして、歴史家がこの問題を討議し続けるのに従って、ソロンの改革の背後にある動機と意図が、(様々な)推測を生み出し続けるだろう。〔See, for example, J. Bintliff, "Solon's Reforms: an archeological perspective", in ''Solon of Athens: new historical and philological approaches'', eds. J. Blok and A. Lardinois (Brill, Leiden 2006), and other essays published with it.〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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