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セントラル・ロンドン鉄道 : ミニ英和和英辞書
セントラル・ロンドン鉄道[せんとらる ろんどんてつどう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ロンド : [ろんど]
 (n) rondo, (n) rondo
: [てつ]
 【名詞】 1. iron 
鉄道 : [てつどう]
 【名詞】 1. railroad 

セントラル・ロンドン鉄道 : ウィキペディア日本語版
セントラル・ロンドン鉄道[せんとらる ろんどんてつどう]

セントラル・ロンドン鉄道(セントラル・ロンドンてつどう、、略称 )は、ツーペニーチューブ(、2ペンスの地下鉄)の別名でも知られる、1900年にロンドンに開業した地下深くを走る「チューブ」の鉄道である〔チューブは、シールドトンネルにより地下深くに円形のトンネルを建設した地下鉄である。〕。こんにち、セントラル・ロンドン鉄道の路線と駅は、ロンドン地下鉄セントラル線中央部を構成している。
セントラル・ロンドン鉄道は、1889年に設立され、投資家のシンジケートにより1895年に建設資金の調達に成功し、1896年から1900年にかけて工事が行われた。開業時、西側のシェパーズ・ブッシュと東側のイングランド銀行を結ぶ全線地下の9.14キロメートルの2本の単線トンネルに13の駅があり、また車両基地発電所がシェパーズ・ブッシュの北側にあった〔路線の長さはに基づく。〕。環状線を形成しようという提案が却下された後、西側をまで1908年に延長し、東側をリバプール・ストリート駅まで1912年に延長した。1920年にグレート・ウェスタン鉄道の路線に沿ってイーリングまで延長し、路線の総距離は17.57キロメートルに達した〔。
当初は投資家に高い配当を支払えていたが、他の地下鉄各線やバスとの競争が激しくなって旅客の減少に苦しむようになった。1913年に、ロンドンの地下鉄の多くを運営していたロンドン地下電気鉄道に買収された。1933年にセントラル・ロンドン鉄道は、ロンドン地下電気鉄道と共に公的所有に移管された。
== 設立 ==

=== 創設、1889年 - 1892年 ===

1889年11月に、セントラル・ロンドン鉄道は1890年の議会に対して法案を提出する意図があることを発表した。この法案では、クイーンズロードとベイズウォーターロードのベイズウォーターにある交差点から、シティ・オブ・ロンドンにあるまで走り、そこで当時建設中であったシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道と接続する計画であった。セントラル・ロンドン鉄道は2本のトンネルで、ベイズウォーターロード、オックスフォード通り、ニューオックスフォード通り、ハイ・ホルボーン、ホルボーン、ホルボーン高架橋、ニューゲート通り、チープサイド、そしてパウルトリーの地下を通ることになっていた。駅は、クイーンズロード、スタンホープ・テラス、マーブル・アーチオックスフォード・サーカス、トテナム・コート・ロード、サウサンプトン・ロウ、ホルボーン・サーカス、セントマーチンズ・ル・グランド、そしてキング・ウィリアム・ストリートに計画されていた。
シールド工法を用いて鋳鉄セグメントの覆工を施した、直径11フィート(約3.35メートル)のトンネルを建設することになっていた。駅においては、構造に応じて直径22フィート(約6.71メートル)または29フィート(約8.84メートル)となっていた。車両基地と発電所はクイーンズロード西側に1.5エーカー(約0.61ヘクタール)の面積で建設されることになっていた。各駅とも、道路とプラットホームを結ぶ水圧エレベーターが設置されることになっていた。
この提案は、セントラル・ロンドン鉄道の経路と北側および南側でそれぞれ並行しており、新線に旅客を奪われると考えられた、インナーサークルを運営するメトロポリタン鉄道メトロポリタン・ディストリクト鉄道から強い反対を受けた〔現在サークル線となっているインナーサークルは、地表に近いところを走る地下鉄で、メトロポリタン鉄道とメトロポリタン・ディストリクト鉄道が共同運行していた。〕。またも、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道の建設の際に経験したように、ルート近くで地盤沈下により建物に被害が及ぶ可能性があるとして反対した。セント・ポール大聖堂も、聖堂の基礎を掘り崩される恐れを気にして反対した。は、このトンネルがロンドンの下水システムを壊してしまうとして反対した。法案は庶民院(下院)では承認されたが、貴族院(上院)では否決され、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道の開通後にその運行を評価できるまでは、いかなる結論も延期されるべきだとした。
1890年11月にシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道は開業し、セントラル・ロンドン鉄道は1891年の会期に新しい法案を提出すると発表した。経路は西側を延長され、ノッティングヒルハイストリート(現在のノッティングヒルゲート)、ホランドパークアベニューの下を通って、シェパーズ・ブッシュ・グリーンの東側の角で終わるようになり、車両基地と発電所はその北側、ウッド・レーンの東側に移された。この西側への延長は、1890年初めに同じ経路で道路のすぐ下を走る地下鉄として提案されたロンドン・セントラル地下鉄の、実現しなかった案に促されたものであった。東側の終点はコーンヒルに変更され、提案されていたサウサンプトン・ロウ駅はブルームズベリー駅に変更された。中間駅がランズダウン・ロード、ノッティング・ヒル・ゲート、デイヴィーズ・ストリート(ここから北へ延伸してオックスフォード・ストリートに到達する計画であった)、チャンスリー・レーンに追加された。初期の計画にあった、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道との接続は取り消され、セントラル・ロンドン鉄道のトンネル直径は11フィート6インチ(約3.51メートル)に拡大された。今度の法案は両院を通過し、1891年セントラル・ロンドン鉄道法として1891年8月5日に女王裁可を得た。1891年11月にセントラル・ロンドン鉄道は新たな法案を公開した。路線の東側は北東側へ曲げられ、のターミナル駅であるリバプール・ストリート駅へ達するようになり、コーンヒル駅は撤回された。また王立取引所(ロイヤル・エクスチェンジ)に新しい駅が提案された。この法案は1892年セントラル・ロンドン鉄道法として1892年6月28日に女王裁可を得た。
セントラル・ロンドン鉄道の建設資金は、アーネスト・カッセル、ヘンリー・オッペンハイム、、ロスチャイルド家の人々などからなる投資家のシンジケートを通じて調達された。1894年3月22日にシンジケートは鉄道建設を請け負う契約者としてエレクトリック・トラクション・カンパニー・リミテッド (ETCL) を設立し、この会社は2,544,000ポンド(こんにちのおよそ2億5300万ポンド)に加えて4パーセント利率の社債70万ポンドで建設することに合意した。シンジケートがセントラル・ロンドン鉄道の株式285,000株を1株当たり10ポンドで1895年6月に売り出した際、同様の鉄道提案が何件も失敗していたことから投資に消極的になっており、イギリスで消化されたのはわずか14パーセントだけであった。一部はヨーロッパおよびアメリカ合衆国で販売されたが、売れ残った株はシンジケートメンバーやETCLが購入した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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