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スティーブ・ダルコウスキー : ミニ英和和英辞書
スティーブ・ダルコウスキー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スティーブ・ダルコウスキー ( リダイレクト:スティーヴ・ダルコウスキー ) : ウィキペディア日本語版
スティーヴ・ダルコウスキー[ちょうおん]

スティーヴン・ルイス・ダルコウスキー(Steven Louis Dalkowski, 1939年6月3日 - )は、アメリカ合衆国野球選手投手)。
1950年代後半から60年代中ごろにかけてマイナーリーグで投げたサウスポーで、制球難と故障のためメジャーリーグに昇格することはなかったが、しばしば「史上最も速い球を投げた投手」としてその名が挙げられる。(詳細は後節)その速球によって「白い稲妻」 (White Lightning) の異名を取った。
ダルコウスキーはまた、その不安定な投球内容と極度の荒れ球で知られており、現役時代・引退後を通じてアルコール依存症と暴力沙汰にまみれた生涯を送った。引退後はアルコール依存症に苦しみながら貧困のうちに各地を転々とし、長らくほとんど誰にも消息を知られることがなかった。1990年代になってようやく消息が発見されたが、すでに認知症を発症しており、1960年代中ごろ以降に自分の身に起こったことを思い出すのは困難となっていた。
脚本家映画監督ロン・シェルトンは、マイナーリーグで一時期ダルコウスキーとともにプレーしたことがあった。シェルトンが監督した1988年の映画「さよならゲーム」 (''Bull Durham'') には、ティム・ロビンス演じる“ニューク”・ラルーシュという若い投手が登場するが、このラルーシュのモデルとなったのがダルコウスキーである。
== 選手としての経歴 ==
ダルコウスキーはコネチカット州ニューブリテンに生まれ、ニューブリテン高校時代に野球を始めた。高校時代にはフットボールもプレーし、同校のクォーターバックとして1955年56年度の地区優勝に輝いている。しかし最も才能を発揮したのは野球においてであり、このころダルコウスキーが記録した1試合24奪三振のコネチカット州記録は、未だに破られていない。
1957年に高校を卒業したのち、4,000ドルの契約金でボルチモア・オリオールズと契約。キングスポートを本拠地とする、オリオールズ傘下クラスDマイナーチームで選手生活を開始した。以降、一度もメジャーに昇格することはなく、9年間のマイナーリーガー生活中に9つの異なるリーグでプレーすることとなる。オリオールズの本拠地だったメモリアル・スタジアムで投げたのは一度きりで、1959年のエキシビジョンゲームでのことだった。このときは相手打者から三振を奪っている。
ダルコウスキーの持ち味は、その並外れた球速である。身長はそれほど高くないが、肩幅が広く、肩周りの筋肉が驚異的に発達していた。彼の速球は打者を畏怖させるに十分だった。しかし致命的なまでに制球が悪く、自滅することも度々だった。1試合でアウトの数よりも四球が多いこともしばしばだった。オリオールズの外野手ポール・ブレアはダルコウスキーを評して、「私が見たなかで一番の剛球を投げる投手。だが一番の荒れ球投手でもある」と述べ、テッド・ウィリアムズは、「速過ぎるにもほどがあるぞ」と冗談めかして苦情を言っていた。カリフォルニアリーグでプレーした1960年には、170イニングスを投げて262奪三振を記録しているが、一方で262個の四球も出した。これは、9イニングスあたり13.81奪三振、同じく13.81与四球という数字である(メジャーリーグにおける9イニングスあたり奪三振数のシーズン記録は、2001年ランディ・ジョンソンが記録した13.41)。投手は一般に、平均して9イニングスあたり4個以上の四球を出すと「荒れ球」であると言われる。しかし、ダルコウスキーの球速は魅力であり、制球が改善されたならば、誰にも手のつけられない投手になると思われたため、オリオールズは彼を解雇せずチャンスを与え続けた。
1957年8月31日、ダルコウスキーはキングスポートでの対ブルーフィールド戦で24個の三振を奪ったが、8対4で負け投手となった。この試合で18個の四球、4個の死球、6個の暴投を記録した。この年、62イニングスを投げて121奪三振(9イニングスあたり18奪三振)の数字をたたき出すも、129個の四球と39個の暴投を記録し、結果的に1勝しかできなかった。
1960年代に入り、アール・ウィーヴァー監督のもと、ダルコウスキーのピッチングは改善の兆しを見せる。当時ウィーヴァーは、ニューヨーク州エルマイラを本拠地とするオリオールズ傘下ダブルAチームの監督だった。ウィーヴァーはここですべての選手にIQテストを受けさせ、その結果ダルコウスキーのIQが75(この数値は知的障害認定のボーダーライン)であることが判明した。ダルコウスキーが度々乱調に陥ることの原因の一端は彼の知能にあると考えたウィーヴァーは、ダルコウスキーに対する指示をなるべく単純なものにすることを決めた。ウィーヴァーの指示は、「速球とスライダーだけを投げろ。ボールはただプレートの真ん中を狙って低目に投げればいい」というものだった。これによってダルコウスキーは、ストライクを投げることだけに集中できるようになった。ダルコウスキーの球速ならストライクゾーンに入ればそうそう打てるものではないとの判断によるものだった。ウィーヴァーの指導によって、1962年はダルコウスキーにとってベストシーズンとなった。この年、最後の57イニングスの成績は110奪三振、11与四球、防御率0.11というものだった。
1963年、前年の好成績を見込まれてメジャーリーグの春季キャンプへの参加が許可される。チーム首脳は、春季キャンプの終わりにはダルコウスキーをメジャーに昇格させたいと考えていた。しかし、3月23日、対ヤンキース戦でリリーフとして登板した際に左肘を故障してしまう。多くの証言によると、フィル・リンツにスライダーを投じた際、左で何かが弾けるのを感じ、重い肉離れを起してしまったとされる。ただし、ジム・バウトンバントしたのを処理して一塁に送球した際の故障とする証言もある。いずれにしろ、この故障によってダルコウスキーは1963年シーズンの残りを棒に振り、彼の腕は二度と元通りになることはなかった。
1964年に復帰した際、ダルコウスキーの球速は90マイル(145キロ)にまで落ちていた。シーズン半ばにはオリオールズから放出され、その後の2シーズンはピッツバーグ・パイレーツロサンジェルス・エンジェルスのマイナーチームで過ごした。しかし故障が完全に回復することはなく、1966年に引退した。マイナーリーグでの9年間の通算成績は、995イニングスを投げて46勝80敗、防御率5.59、1,396奪三振、1,354与四球というものだった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スティーヴ・ダルコウスキー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Steve Dalkowski 」があります。




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