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スコットランド国営南極遠征 : ミニ英和和英辞書
スコットランド国営南極遠征[すこっとらんどこくえいなんきょくえんせい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [くに]
 【名詞】 1. country 
国営 : [こくえい]
 【名詞】 1. state management 
: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 
南極 : [なんきょく]
 【名詞】 1. south pole 2. Antarctic 
: [きょく, ごく]
  1. (adv,n) quite 2. very 
: [とお]
  1. (adj-no) distant 
遠征 : [えんせい]
  1. (n,vs) (1) expedition 2. campaign 3. (performer's) tour 4. (2) away series (baseball) 

スコットランド国営南極遠征 : ウィキペディア日本語版
スコットランド国営南極遠征[すこっとらんどこくえいなんきょくえんせい]

スコットランド国営南極遠征(スコットランドこくえいなんきょくえんせい、)は、1902年から1904年にウィリアム・スペアズ・ブルースが編成し率いた南極遠征である。ブルースは博物学者であり、元はエディンバラ大学の医学生だった。この探検は、同時期に行われたロバート・ファルコン・スコットが率いたイギリス国営南極遠征(ディスカバリー遠征)の権威の陰に隠れがちであるが、探検と科学的調査の計画全てを実行した。その功績の中には、南極圏では初めてである有人の気象観測所設置、ウェッデル海の東に新しい陸地を発見したことなどがあった。生物学と地質学の標本を大量に収集し、ブルースがそれ以前に集めていたものと合わせて、1906年にはスコットランド海洋学研究室を設立することになった。
ブルースは1890年代の大半を使って南極北極地域に遠征しており、1899年までにイギリスでは最も経験ある極圏科学者になっていた。1899年3月、ブルースはディスカバリー遠征への参加を応募した。しかし、2隻目の船を使ってウェッデル海の四半分で科学調査を行うよう遠征の範囲を拡大するというブルースの提案は、王立地理学会の会長クレメンツ・マーカム卿から「誤ったライバル関係」として却下されてしまった。ブルースの遠征は王立スコットランド地理学会が支持し、推進された。
この遠征は「南極探検の英雄時代に行われた遠征の中で、最もコスト効果が良く注意深く計画された科学遠征」と表現されてきた。それにも拘わらず、ブルースはイギリス政府から正式な栄誉や認知を得ることがなく、活発にロビー活動を行っても遠征隊員には権威ある極圏メダルが授与されなかった。ブルースはこの遠征後に南極遠征を率いることが無かったが、定期的に北極は訪れた。真剣な科学的探検に注力することは当時としては流行でなく、スコット、シャクルトンアムンセンのような極圏冒険家とは異なり、その功績は大衆の記憶からすぐに消えて行った。この遠征の今も残る功績は、1903年にサウスオークニー諸島のローリー島に「オモンド・ハウス」として設立されたオルカダス気象観測所であり、現在も運営が続けられている。
== 遠征に至る背景 ==

ブルースはその学生時代に、著名な指導者であるパトリック・ゲデスとジョン・アーサー・トムソンが講師を務めた夏季コースで勉強したことで、博物学と海洋学の知識を作り上げていた。海洋学者のジョン・マレー博士の下で自発的に働き、チャレンジャー遠征のときに集められた標本の分類を手伝っていた。1892年、ブルースは医学の勉強を断念し、ダンディ捕鯨遠征(1892年-1893年)の一部として、捕鯨船''バリーナ''で南極海の航海に参加した。その遠征から戻ると、サウスジョージアに向かう自分自身の遠征を組織し始め、「私が自分を貪欲にした好み」を主張していたが、資金を集められなかった。その後ベン・ネビス山山頂の気象観測所で働いた後、フランツ・ジョゼフ・ランドに向かうジャクソン=ハームズワース遠征に科学者助手として参加した。1897年から1899年、ブルースはさらにスピッツベルゲン島に、さらにノヴァヤゼムリャに、最初はアンドリュー・コーツ少佐が組織した私的な旅で、後には北極海調査船''プリンセス・アリス''で科学者として北極海に行った。''プリンセス・アリス''は著名な海洋学者モナコ大公アルベール1世が所有する船であり、アルベールはブルースの友人かつ支持者になった。
ブルースは1899年に北極から帰った後、ロンドンの王立地理学会に長い手紙を書き、学会が当時編成していた南極遠征(後にディスカバリー遠征と呼ばれることになった)の科学者の地位に応募した。ブルースが近年積み重ねていた経験からして、「イギリス諸島で当時、他に有能な資格があるような者はいそうにない」状態だった。ブルースの当時の能力を全て詳述したその手紙は受け取られたが、1年以上が過ぎるまで回答が無かった。その1年の間にブルースの考えは、科学者スタッフの助手を想定していたものからさらに先に進んでいた。このとき別にスコットランドの財源から手当てした遠征の2番目の船を提案し、主たる船がロス海で活動する間、その船はウェッデル海四半分で活動するものとしていた。この提案が王立地理学会会長のクレメンツ・マーカム卿から「誤ったもの」と非難され、幾らか熱した文通の後で、ブルースは独立して遠征を進めることに決めた。こうした経過で、はっきりしたスコットランド国営南極遠征という考え方が生まれた。ブルースは裕福なコーツ家に支えられており〔、ブルースの指導下にスコットランド遠征に対して心からの財政的裏付けを与えてくれた。しかし、その結果としてマーカムから執拗な敵意を向けられることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スコットランド国営南極遠征」の詳細全文を読む




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