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ウィリアム・スペアズ・ブルース : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・スペアズ・ブルース[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウィリアム・スペアズ・ブルース : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・スペアズ・ブルース[ちょうおん]

ウィリアム・スペアズ・ブルース-・スピアーズ・-、、1867年8月1日 - 1921年10月28日、エディンバラ王立協会員)は、スコットランド博物学者極圏科学者、海洋学者であり、スコットランド国営南極遠征隊を組織して指導し、サウス・オークニー諸島からウェッデル海を探検した(1902年-1904年)。数ある業績の中でも、南極圏で初の恒久的気象観測所を設立したことがある。ブルースは後にスコットランド海洋学研究所を設立したが、南極点を通って南極大陸を横断するという計画は、公的支援や財政的支援が無かったので放棄された。
1892年、ブルースはエディンバラ大学での医学の勉強を放棄し、南極海へのダンディ捕鯨遠征に科学助手として参加した。その後には北極海ノヴァヤゼムリャスピッツベルゲン島フランツ・ジョゼフ・ランドに航海した。1899年、当時イギリスでは最も経験を積んだ極圏科学者であり、ロバート・スコットが隊長を務めるディスカバリー遠征に応募したが、その指名が遅れたこと、ならびに王立地理学会クレメンツ・マーカム卿と衝突したことによって、ブルースが自ら遠征隊を組織することになり、イギリスの地理関連団体とは永遠に続く敵対関係になった。ブルースは極圏での働きで様々な表彰を受けた。例えばアバディーン大学からの名誉博士号であるが、ブルースもスコットランド国営南極遠征隊隊員も、権威ある極地メダルについて王立地理学会からの推薦を得られなかった。
1907年から1920年、科学と商業の両方の目的で、ブルースは北極圏に何度も旅した。スコットランド国営南極遠征の後には大きな探検事業を仕掛けることができなかったことは、宣伝技術の無さ、強力な敵の存在、さらにブルース自身の熱烈なスコットランド国粋主義の性とされている。1919年までに健康が衰え、1921年に死するまでに何度か病院に入院した。死後はほとんど忘れられた存在となった。近年、スコットランド国営南極遠征から1世紀が経って、科学的極圏探検の歴史におけるその役割に十分な認識を与える動きが行われている。
== 初期の経歴 ==

=== 生い立ちと学校教育 ===
ウィリアム・スペアズ・ブルースは1867年8月1日に、ロンドンで生まれた。父はスコットランド人の医師サミュエル・ノーブル・ブルース、母はウェールズ出身のメアリー(旧姓ロイド)であり、その4番目の子供だった。ブルースのミドルネームであるスペアズは一族の別の系列から来ていた。その綴りは通常の"Spiers"とは異なって特徴があり、記者、批評家、伝記作者には問題を引き起こしていた。ブルースの子供時代は、ロンドンのホランドパーク、ロイヤル・クレセント18にあった家族の家で過ごし、祖父のウィリアム・ブルース牧師の後見を受けた。近くにあるケンジントン・ガーデンズを定期的に訪れ、時にはロンドン自然史博物館に行った。父のサミュエル・ノーブル・ブルースに拠れば、このような外出行動が幼いウィリアム・ブルースの生命と自然に対するる興味に火をつけた。
1879年、ブルースが12歳のときに、ノーフォークのノースエルマンの村にある進歩的な寄宿制学校であるノーフォーク郡学校(後のワッツ海兵学校)に送られた。1885年までそこに留まり、その後にハムステッドのユニバーシティ・カレッジ・スクールで2年間を過ごし、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの医学校に入るための入学試験の準備をした。ブルースは3度目の挑戦で試験に合格し、1887年夏には医学の勉強を始める準備ができた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の詳細全文を読む




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