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ウィリアム・スミス・クラーク : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・スミス・クラーク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウィリアム・スミス・クラーク : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・スミス・クラーク[ちょうおん]

ウィリアム・スミス・クラークWilliam Smith Clark1826年7月31日 - 1886年3月9日)は、アメリカ合衆国教育者化学植物学動物学の教師。農学教育のリーダー。
札幌農学校(のち、東北帝国大学農科大学をへて北海道帝国大学)初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。〔  札幌独立キリスト教会〕。日本ではクラーク博士として知られる。日本人から見るといわゆる「お雇い外国人」のひとりである。
== 略歴 ==
1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。 1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。成績が非常に優秀であったので〔NHK『歴史秘話ヒストリア』「少年よ 大志を抱け! ~クラークと教え子たちの北海道物語~」2014年6月11日 再放送〕、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした〔。(動物学は1852年~1858年、植物学は1854年~1858年に担当)。じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された、科学と実践農学の学部の長になる。がこれはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。
マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年~1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年~ 1872年も再度就任)。
途中、南北戦争に参加することになり、クラークのアカデミックなキャリアは一旦中断する。
アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語では President と表記することが開拓使によって許可され、殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を企画するが失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされた。その後心臓病が発生して寝たり起きたりの生活。1886年3月9日、心臓病により59歳でこの世を去った。彼はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーに葬られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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