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スカロン : ミニ英和和英辞書
スカロン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


スカロン ( リダイレクト:ポール・スカロン ) : ウィキペディア日本語版
ポール・スカロン

ポール・スカロン1610年7月10日 - 1660年10月6日)は、17世紀フランス劇作家。彼の作品に通底する「見た目と実情のギャップ」による人物造形のあり方は、フランス喜劇に大きな影響を与えている。モリエールの人物造形とも類似性がある。''、1610年7月10日 - 1660年10月6日)は、17世紀フランス劇作家。彼の作品に通底する「見た目と実情のギャップ」による人物造形のあり方は、フランス喜劇に大きな影響を与えている。モリエールの人物造形とも類似性がある。
== 生涯 ==
1610年7月10日、パリに生まれた。スカロン家は15世紀以来、法曹界、財界、政界にかかわってきた名家で、父親はパリ高等法院評議官であった。母親はスカロンが3歳の時に他界してしまったため、父親は1617年に後妻を迎えた。しかしスカロンはこの後妻や、異母兄弟たちと折り合いが悪く、1629年には継母の意向もあって、家を出て自活するようになった。スカロンはこの生活を満喫していたようで、毎日のように社交界に出入りし、トリスタン・レルミットジョルジュ・ド・スキュデリーらと交流を深めていった〔フランス十七世紀の劇作家たち 研究叢書52,中央大学人文科学研究所編,P.320,中央大学出版部,2011年〕。
1635年にパリを離れ、ル・マンの司教のもとへ赴いた。継母や異母兄弟との関係悪化を心配した父親の計らいであるという。ル・マンでも様々な人物との出会いがあった。画家のニコラ・プッサンや、演劇界のパトロンとして有名であったブラン伯爵と出会ったのはこの頃である。ブラン伯爵は劇作家のジャン・メレジャン・ロトルーをも庇護していたから、彼らとの交流もあったのかもしれない。ル・マンでの生活を謳歌していたスカロンであったが、1638年にリューマチに罹患し、生涯この病気に苦しめられることとなった。謝肉祭の夜、裸になって全身にはちみつを塗りたくり、鳥の羽を付けて凍った湖に飛び込んで、水鳥の真似をしたことが原因であるという。後にこの病気のせいで体がひどく湾曲してしまい、「Z先生( ''Monsieur Z'' )」というあだ名までつけられてしまった。リューマチの療養先で、ルイ14世の愛妾マリー・ド・オートフォールに出会い、気に入られている〔Ibid. P.320-1〕。
1640年ごろ、パリに戻った。この時に王妃から年金を獲得したために、あだ名が「王妃の病人(''Malade de la Reine'')」となった。同じころに父親が他界し、遺産相続を巡って継母や異母兄弟と訴訟沙汰にまでなっている。スカロンが文芸活動に本格的に取り組みだしたのは、この頃である。1643年に『ビュルレスク詩集』を著し、文壇にデビューした。この詩集は大評判を獲り、一躍有名人となった。詩人として文壇にデビューしたスカロンであったが、その直後に喜劇役者であるジョドレをモチーフにした『ジョドレ、あるいは主人になった召使』と『決闘者ジョドレ』を著し、劇作家としてもデビューすることとなった。これらの戯曲は大成功し、これがきっかけとなって「ジョドレ物」と呼ばれるジャンルが生まれ、ジョドレ自身の名声はますます高まっていった〔Ibid. P.321,324〕。
1648年には『偽ヴェルギリウス』の出版許可を取り、翌年からその出版を開始した。充実した創作生活を送り始めるのは、この頃からである。戯曲『滑稽な相続人』、『ドン・ジャフェ・ダルメニー』を著して大成功を収めたが、とくに後者は、「ビュルレスク喜劇の傑作」とまで評された。同年のフロンドの乱以降、スカロンは政治的な問題でジュール・マザランと対立するようになり、1649年には年金を停止されてしまった。彼はこれに怒り、1651年にマザランを批判する『ラ・マザリナード』を著し、敵意をむき出しにしていく。同年9月には『ロマン・コミック』第一部を出版した。この作品は、フランス17世紀を代表する作品の1つである〔Ibid. P.328,335〕。
同じころ、病気療養のためにギニアに旅行しようと考えたスカロンは赤道インド協会に参加し、そこで後の妻となるフランソワーズ(彼の死後にフランス宮廷に出仕し、マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェとして知られるようになる)と知り合った。お互いに惹かれ合って逢瀬を重ね、ついに1652年に結婚する。この結婚は様々な憶測を呼び、スカロンは根も葉もない醜聞に悩まされたが、彼の家には以前に増して様々な人が訪れるようになり、一種のサロンのような様相を呈するようになった。多くの文人がここに集まったというが、しかしこのような人付き合いが家計を苦しめたようで、次々に作品を制作しなければならなかったようである〔Ibid. P.335〕。
1655年、スペインの短編小説集をもとに『悲喜劇的短編集』を著した。この短編集に収録されている作品が、モリエールの『女房学校』や『守銭奴』に影響を与えたといわれている。1656年に『滑稽な公爵』を上演してからも、『ロマン・コミック』第2部を出版するなど、精力的に文学活動を続けていたが、リューマチは悪化の一方をたどり、ついに自宅で1660年10月6日に息を引き取った。自分の体を変形させるほどの病気、継母たちとの確執、美しい妻とのゴシップなど日常生活に様々な問題を抱えていたが、それらを払しょくするように笑いを追求し続けた生涯であった〔Ibid. P.344-5〕。
スカロンの死後も、未発表の作品が出版され続けた。遺された家族たちが経済的困窮から脱出するためである〔Ibid. P.345〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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