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ジョージ湖の戦い : ミニ英和和英辞書
ジョージ湖の戦い[-このたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [みずうみ]
 【名詞】 1. lake 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ジョージ湖の戦い : ウィキペディア日本語版
ジョージ湖の戦い[-このたたかい]

ジョージ湖の戦い(-このたたかい、英Battle of Lake George)は、1755年9月8日に、現在のニューヨーク州の北部で行われた戦闘である。この戦闘は、フレンチ・インディアン戦争における、イギリスによる北アメリカからのフランス駆逐作戦の一つであった。
ディスカウ男爵ジャン・エルドマンが率いるフランス軍は、インディアン兵も含めて1500人、方やイギリス軍は、サー・ウィリアム・ジョンソン率いる13植民地軍1500人の軍勢と、有名な族長ヘンドリック・テヤノギンが率いる200人のモホーク族の兵だった。
==軍事作戦==

イロコイ族へのエージェントとして任命されたウィリアム・ジョンソンは、1755年8月28日に「サンサクルマン湖」(Lac Saint Sacrement)の南端に到着し、この湖を当時のイギリス国王、ジョージ2世への敬意を表してジョージ湖と改名した。ジョンソンの計画では、ジョージ湖とシャンプラン湖を経由して、フランスの支配下にあるサンフレデリック砦と、クラウンポイントを攻撃する予定だった。クラウンポイントはヌーベルフランス防御の要の地だった〔Anderson, Fred, ''Crucible of War: The Seven Years War and the Fate of Empire in British North America, 1754-1766'', Faber and Faber Limited, London, 2000, ISBN 0-571-20565-8, p. 118〕。
ディスカウはすでに、ジョンソンの行軍を阻止するためにクラウンポイントを発ち、ジョージ湖とシャンプラン湖の間のカリヨン砦(後のタイコンデロガ砦)に野営を張っていた。9月4日、ディスカウは、ハドソン川に沿った、建築されたばかりのエドワード砦(当時はライマン砦と呼ばれていた)を襲撃することに踏み切った。この砦はジョンソンの野営地であった〔Parkman, Francis, ''Montcalm and Wolfe (The French and English in North America, Part Seventh), Vol. I,'' Little, Brown and Company, Boston, 1942, p. 309〕 。ディスカウの狙いは、この作戦でイギリスに必要な物資や大砲を輸送する船を破壊することだった〔Anderson, ''Crucible of War'', Page 117〕。ディスカウはカリヨン砦に駐屯兵を半分ほど残し、あとの半分の兵を、ハドソン川に代わる別の水路を進ませ、サウスベイで船から降り、ウッドクリーク沿いに進軍した〔Bancroft, George, ''History of the United States, from the Discovery of the American Continent, Vol. IV,'' Little, Brown and Company, Boston, 1856, p. 209〕。
ディスカウに率いられたフランスの正規歩兵連隊、との222人の軍勢と、600人の民兵、700人のアベナキ族とモホーク族の同盟軍は、1755年9月7日の夕方にエドワード砦に到着した〔Anderson, ''Crucible of War'', p. 115〕。
ジョージ湖の南端にあるエドワード砦の、14マイル(23キロ)北で野営を張っていたジョンソンは、南側に敵が迫ったを斥候から知らされた。ジョンソンは、砦の500人の兵にこのことを知らせるべく、伝令を走らせたが、伝令は捕えられ、そのすぐ後に、物資を運んでいたイギリスの隊列が攻撃に遭い、その結果、ジョンソンの計画がディスカウに筒抜けになった。フランス軍に合流していたインディアン兵は、会議を開いたのち、砦の占領を断念した。大砲からの砲撃によって阻止されると思ったからである。そして8日の朝、ディスカウは軍に湖への進軍を命じた〔Parkman, ''Montcalm and Wolfe,'' p. 310〕。
9月8日の朝9時に、ジョンソンは、1000人のマサチューセッツ連隊を引き連れた大佐エフライム・ウィリアムズと、やはり大佐で、コネチカット連隊と200人のモホーク同盟を率いるネイサン・ホワイティングに、エドワード砦への応援を命じた。ウィリアムズ連隊の脱走兵からの警告で、ディスカウは正規兵と共に連水経路を封じ、民兵とインディアン兵に命じて、敵兵を道の両側で待ち伏せさせた〔Anderson, ''Crucible of War'', pp. 118-119〕 。民兵とインディアンは、現在のレイクジョージの町から3マイル(4.8キロ)南にある峡谷で、身をひそめて敵軍を待った〔Bancroft, ''History of the United States, Vol. IV,'' p. 210〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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