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ジョン・ウィリアム・フェントン : ミニ英和和英辞書
ジョン・ウィリアム・フェントン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジョン・ウィリアム・フェントン : ウィキペディア日本語版
ジョン・ウィリアム・フェントン

ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton、1831年3月12日〔これまで中村理平の著書では1828年生まれとされていたが、これは推測であり誤り。〕 - 1890年4月28日1890年4月30日死去という文献もあるが、誤り。1890年4月28日アメリカのサンタクルーズ (カリフォルニア州)にて死去、4月30日葬儀。2008年8月秋山紀夫らによる現地調査により、墓石も確認している。〕 )は、アイルランド生まれのイギリスの軍楽隊員。13歳で、少年鼓手兵としてイギリス陸軍に入った。1864年、第10連隊第1大隊軍楽隊長。1868年4月、横浜に赴任、同大隊はイギリス大使館護衛部隊となった。
ヴィクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレッドの来日が決まったとき(1869年8月29日(明治2年7月22日)来日)、多くの日本側関係者に儀礼式典での国歌吹奏を説明したが、当時の日本に国歌の概念がなかった。フェントンは日本側から作曲の依頼をされ、通訳の原田宗助が歌っていた『武士(もののふ)の歌』を参考に、当時日本にあった鼓笛隊でも演奏が出来るように『君が代』を作曲した。フェントンの『君が代』は、コラールふうで、旋律にはアイルランド臭が感じられるという。しかしエディンバラ公が日本の地を踏んだとき、両国の国歌吹奏が行われたかどうかは不明、省略された可能性もある。
1869年、9月ごろから日本で初めての吹奏楽の練習として、薩摩藩の青年を指導したが、薩摩藩からの交渉、依頼がいつから始まったのかは不明である。
イギリスから楽器が届くまでは、調練、信号ラッパ、譜面読み、鼓隊の練習をおこない、明治3年(1870年)7月ベッソン社の楽器が届いた。1871年、イギリス海軍を退役し、兵部省(のち海軍省)水兵本部雇となったが、自身作曲の『君が代』の評判は、中村祐庸その他に批判されるなどかんばしいものではなかった。一方、陸軍では海軍と分けられたのちは、フェントン作曲の『君が代』を顧みず、敬礼ラッパ曲『陣営』を礼式曲として用いた。この時点では、正式の、あるいは公式の「国歌」として受け容れられなかったように思われる。1874年から1877年まで、宮内省雇教師。日本で先妻を亡くした後(横浜外人墓地に埋葬)、アメリカ人女性と再婚し、渡米した。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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