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ジャン=ルイ・ガセー : ウィキペディア日本語版
ジャン=ルイ・ガセー[ちょうおん]

ジャン=ルイ・ガセー(, 1944年 -)は、BeOSを開発したBe社の設立者であり、米国アクセス・システムズCEOを務めた。2003年から Allegis Capital の Partner である。
==経歴==
1944年に、フランスパリに生まれる。オルセー大学で数学と物理学を学び、パリ大学の博士課程に進むが、修士号を取得したのちに退学。エクソンのフランス子会社やヒューレット・パッカード勤務の後、1981年にアップルコンピュータに移り、1985年からはアップルのフランス法人の社長となる。
1985年にスティーブ・ジョブズのアップル離脱のキーマンとなり、クパチーノ本社に招かれ、技術担当になる。Macintosh IIやMacintosh Portableの開発などの指揮をとる。
ガセーは、アップルはマックに集中すべきだと考えていた。彼はマッキントッシュの外部ライセンスに反対の立場をとり、またジョン・スカリーが積極的に推し進めていたニュートン・メッセージパッドの開発に対しても、自身が開発許可を与えたにもかかわらず批判的な立場であった。結局はスカリーとの対立がもとで1990年アップルを退社することになった。退社に際しては、ポータブルと称するには余りにも巨大なMacintosh Portableを開発した成果を評してガイ・カワサキから「ウォークマン」と称してラジカセがプレゼントされたという。
1990年、彼はBe社を設立し、C++ベースのオペレーティングシステム (OS) であるBeOSの開発に着手する。1995年に、BeOS専用機でPowerPC 603を2基搭載したBeBOXを製品化。さらにマック上で動作するBeOSを短期間で開発し、Macintosh互換機を販売していたパワーコンピューティング社にライセンスするなどした。
一方で、IBMと共同開発を行っていたTaligentや先進機能を取り入れたCoplandの開発に失敗していたアップルは、外部からのOSの調達を迫られており、1996年からBe社との交渉が始まる。ガセー本人は買収金額には執着しないと語っていたが、アップルは当初5,000万ドル程度とBe社を見積もっていたのに対しBe社はアップルに最初1億ドルを要求、アップルが他に選択肢がないとみると4億ドルまで価格を吊り上げたといわれている。
1996年末のある日、ジョブズのNEXTSTEPとの比較プレゼンテーションがアップル本社で行われた。ガセー本人は、プレゼンは単なる形式だけのもので、アップルはBeを選択するだろうと考えていたが、実はアップル側はこの時既にNeXTの採用をほぼ決めていたという。この日、何も準備をしてこなかったガセーは、完璧なプレゼンを終えたジョブズの前に敗れ去った。
BeOSはその後、x86プラットフォームに移植し、PC/AT互換機情報家電へのバンドルに活路を求めた。日立製作所からBeOS搭載機なども発売されたが、マーケット的には失敗に終わり、2001年8月、Be社をパーム社に1,100万ドルで売却した。
2004年に、パームソース(現ACCESS Systems)社のCEOに就任した。
2003年から Allegis Capital の Partner を務め、現在は General Partner の職にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャン=ルイ・ガセー」の詳細全文を読む




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