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ジャヤーヴァルマン7世 : ミニ英和和英辞書
ジャヤーヴァルマン7世[じゃやーう゛ぁるまん7せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

ジャヤーヴァルマン7世 : ウィキペディア日本語版
ジャヤーヴァルマン7世[じゃやーう゛ぁるまん7せい]

ジャヤーヴァルマン7世(、 1125年〔金山「ジャヤヴァルマン7世」『アジア歴史事典』4巻、254頁〕 - 1218年?/1220年?〔石澤『アンコール・王たちの物語』、192頁〕)は、クメール王朝国王(在位: 1181年 - 1218年/1220年)。クメール王朝初の仏教徒の国王であり、仏法で国を統治する転輪聖王となることを志して、戦乱で荒廃した国の復興を目標としていた〔石澤『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』、114-115頁〕。
彼が行った慈善事業は高く評価され、また数々の軍事遠征を実施する好戦的な性格も持ち合わせていた〔石澤『アンコール・王たちの物語』、153頁〕。碑文においては軍人、政治家としての能力、人格を称賛されている〔石澤『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』、112頁〕。彼の在位中に王国の版図はチャイヤー、ビルマ南支那海沿岸部、ラオス中央に拡大した〔桜井、石井「メコン・サルウィン川の世界」、108-110頁〕。
アンコール・トム北のクメル・ロメアス遺跡のほか、タイピマーイ遺跡スコータイ遺跡でジャヤーヴァルマン7世を模した彫像が発見されている〔。
== 生涯 ==

ダーラニンドラヴァルマン2世を父に持ち、ハルシャヴァルマン3世の娘〔(あるいはスーリヤヴァルマン2世の孫娘〔)チューターマニを母に持つ。両親はいずれもクメール王朝から独立した小国の出身だと考えられている〔。
1169年チャンパ王国遠征の軍を率いていたジャヤーヴァルマン7世はダーラニンドラヴァルマン2世の死とヤショヴァルマン2世の即位を知り、軍を引き返した〔石澤『アンコール・王たちの物語』、151頁〕。しかし、帰還中にヤショヴァルマン2世が暗殺され、ジャヤーヴァルマンは潜伏して機会を待った〔石澤『アンコール・王たちの物語』、151-152頁〕。
1177年にアンコールがチャンパによって占領されたことを知ったジャヤーヴァルマンは、軍隊を連れてクメールに帰国する。チャンパとの戦闘にあたり、ジャヤーヴァルマンの妻ジャヤラージャドゥヴィーは、勤行に身を投じてジャヤーヴァルマンの勝利を祈願した〔石澤『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』、107頁〕。プリヤ・カーン付近で白兵戦、トンレサップで水上戦が展開され、クメール軍はチャンパ軍に勝利する〔。戦争で荒廃したアンコール都城を復興した後〔石澤『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』、109頁〕、1181年にジャヤーヴァルマンは王位に就いた。即位直後にジャヤラージャドゥヴィーが没し、ジャヤーヴァルマンは彼女の姉妹インドラドゥヴィーを新たに王妃に迎え入れる〔石澤『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』、113頁〕。国内にはジャヤーヴァルマンの支配が及ばない地域が多く、断続的に反乱の平定が行われた〔石澤『アンコール・王たちの物語』、152頁〕。
1190年に再度カンボジアに侵入したチャンパを撃退、チャンパ領に進攻し、チャンパの首都ヴィジャヤを占領する。チャンパ占領後、ジャヤーヴァルマンは義弟スールヤジャヤヴァルマデーヴァをヴィジャヤの王に、腹心のチャンパ人スルーヤヴァルマンをパーンドゥランガの王に任命した〔桜井由躬雄「南シナ海の世界」『東南アジア史1 大陸部』収録(石井米雄、桜井由躬雄編, 世界各国史, 山川出版社, 1999年12月)、73頁〕。ジャヤーヴァルマンはスルーヤヴァルマンを実子同様に養育していたが〔石澤『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』、110頁〕、スルーヤヴァルマンはヴィジャヤで起きた反乱を鎮圧した後クメールから独立する〔桃木至朗「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』収録(岩波講座 東南アジア史2, 岩波書店, 2001年7月)、35-36頁〕。1203年にスルーヤヴァルマンの叔父ダナパティ・グラーマを派遣してチャンパを再征服し、1220年までクメールはチャンパを支配下に置いた〔。
1218年にクメールは南宋の朝廷に使節を派遣〔石澤『アンコール・王たちの物語』、174頁〕、ジャヤーヴァルマンは使節の派遣と同じ時期に没したと考えられている〔。ジャヤーヴァルマンの死後からクメール王朝の衰退が始まり〔、西部に居住するタイ人の台頭によってアンコールを中心とした水陸のネットワークは崩壊する〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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