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ジャック・クレーマー : ミニ英和和英辞書
ジャック・クレーマー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

クレーマー : [くれーまー]
 【名詞】 1. claimer 2. claimant, (n) claimer/claimant
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャック・クレーマー : ウィキペディア日本語版
ジャック・クレーマー[ちょうおん]

ジャック・クレーマー(英語:Jack Kramer, 1921年8月1日 - 2009年9月12日)は、アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス出身の元男子テニス選手である。本名はジョン・アルバート・クレーマー(英語:John Albert Keamer)といい、“Jake”(ジェイク)という愛称で親しまれた。第2次世界大戦をまたぐ激動期にアマチュアテニス選手として活動し、現在でいう四大国際大会の男子シングルス部門で3回・男子ダブルス部門で6回・混合ダブルス部門で1回の優勝を挙げる活躍を魅せた。後に1947年にプロテニス選手に転向。
彼はサーブを打って素早くネット際に詰める「サーブ・アンド・ボレー」を貫き、相手のサーブに対するリターンの後も素早くネット際に詰めて攻撃をする「チップ・アンド・チャージ」を仕掛ける程、ネットプレーを好んだ。配球に様々な工夫を凝らし、常に頭を使って相手を支配するスタイルであった自身のテニスについて、彼は著書に「確率」「パーセンテージ」などの語を多用しており、現在では「確率のテニス」の源流を作った第一人者として彼の名が挙がる。
また、選手としてだけに留まらず、彼の活動は多岐に渡る。1968年にテニス界のオープン化処置に関わり、後にプロテニスツアーの興行会長(プロモーター)となって1972年に発足した男子プロテニス協会(通称:ATP)の初代責任者に就任するなど、プロテニスの運営活動で顕著な業績を残しており、テレビ解説者としての活動も幅広い分野を手がけてきたテニス史における重要人物として欠く事の出来ない存在である。

== アマチュア選手時代 ==
ジャック・クレーマーは1921年8月1日ユニオン・パシフィック鉄道の作業員のひとり息子としてラスベガスに生まれた。ラスベガスは当時もギャンブルの街で、クレーマーも子供の時からトランプゲームなどに親しんだ。彼は父親の勤務先にあった古い運動場で、テニスを含む様々なスポーツに親しみ、最初は草野球に熱中した。彼が本格的にテニスを志したきっかけは、1935年の春に見たポモナカリフォルニア州ロサンゼルス郡にある都市)のカウンティ・フェアで、当時世界最強の選手だったエルスワース・バインズのプレーに魅了された時だったという。それからサンタモニカで開かれたジュニア・トーナメントに初出場し、当時「南カリフォルニア・テニス連盟」の会長だったペリー・ジョーンズ1890年 - 1970年)と出会い、「ロサンゼルス・テニスクラブ」で彼の指導を受け始める。これを契機に、クレーマー一家はラスベガスを去ってロサンゼルスに定住した。このクラブで出会ったジョー・ハントテッド・シュローダーボビー・リッグスパンチョ・ゴンザレスなどが、後にクレーマーのテニス経歴を通じて重要なライバルとなる。
クレーマーは1938年全米選手権4大大会に初出場し、翌1939年に18歳で男子テニス国別対抗戦・デビスカップアメリカ代表選手に指名された。18歳1ヶ月でのデ杯デビューは、1968年ジョン・アレクサンダーが17歳5ヶ月でオーストラリア代表に選ばれるまで、29年間デビスカップの最年少出場記録であった。 クレーマーは2歳年上のジョー・ハントとともに、1939年9月2日-5日にかけて行われたオーストラリアとの決勝戦で第3試合のダブルス戦に起用された。先にボビー・リッグスフランク・パーカーがシングルス2試合を取ったが、クレーマーとハントのペアが、当時世界最強のダブルスコンビとして知られたエイドリアン・クイストジョン・ブロムウィッチ組に 7-5, 2-6, 5-7, 2-6 で敗れた後、流れは一気にオーストラリアに傾き、アメリカはオーストラリアに逆転負けした。 このデビスカップ決勝は、第2次世界大戦開戦のただ中で行われた。(第2次世界大戦の勃発は、ヒトラーポーランド侵攻を開始した9月1日である。)世界大戦勃発により、デビスカップやウィンブルドン選手権は開催中止となったが、全米選手権だけは戦時中も途切れることなく続行された。戦時中のアメリカ男子テニス界では、どの選手も軍務に就きながら全米選手権に出場した。
開戦の翌年、クレーマーは1940年全米選手権で男子ダブルス・混合ダブルスの決勝に初進出した。男子ダブルスでは親友テッド・シュローダーと組んで初優勝し、ここで最初のタイトルを獲得するが、ドロシー・バンディと組んだ混合ダブルスでは準優勝に終わる。1941年全米選手権ではシュローダーとの男子ダブルスと、サラ・ポールフリー・クックと組んだ混合ダブルスを制し、2部門制覇を達成した。ところが1942年全米選手権の開幕前日に、彼は虫垂炎(盲腸炎)で倒れて出場を断念する。1943年の大会期間中は食中毒に見舞われ、2年連続で病気の不運に見舞われた。1943年全米選手権の男子シングルスは、戦争の激化のため出場選手数が激減し、32名の選手による5回戦制で優勝を争った。クレーマーはここで初の決勝進出を果たすが、少年時代からのライバルの1人だったジョー・ハントに 3-6, 8-6, 8-10, 0-6 で敗れて準優勝に終わった。戦時中のクレーマーはアメリカ軍で沿岸警備員の仕事に就いたため、終戦後の1946年までテニス界に復帰できなかった。ジョー・ハントはアメリカ海軍に入隊し、1945年2月2日に航空事故で死去したため、1943年の全米決勝が2人の最後の対戦になった。
1945年に第2次世界大戦が終結し、デビスカップやウィンブルドン選手権は1946年から開催が再開された。終戦後最初のウィンブルドン選手権で、ジャック・クレーマーは男子シングルス4回戦でヤロスラフ・ドロブニー(当時チェコスロバキア国籍)に 6-2, 15-17, 3-6, 6-3, 3-6 の5セット・マッチで敗れてしまう。彼はこの試合でラケットを握る右手のまめが破れ、試合終了時には手が血まみれになっていた。不本意なシングルス敗戦の後、クレーマーはサンフランシスコ出身のトム・ブラウンと組んで男子ダブルス初優勝を決めた。ブラウンの自伝によれば、ウィンブルドン・ダブルスに臨む前に、コーチのペリー・ジョーンズから「ジャックは経験豊富な選手だから、ダブルスでは彼の言う通りにしなさい」と指示されたという。この後、1946年全米選手権1947年ウィンブルドン選手権の男子シングルスで、クレーマーはブラウンと2度決勝対決を行い、2度ともストレート勝ちを収めた。当時「フリスコ(サンフランシスコ)の殻ざお」(The Frisco Flailer)というニックネームで呼ばれたブラウンは、クレーマーの観点では“対等なライバル”とは思えなかったという。1947年のウィンブルドンでは、男子シングルスの7試合を通じて総計「37ゲーム」しか落とさず、ブラウンとの決勝戦はわずか45分で決着をつけた。男子ダブルスではボブ・ファルケンバーグと組んで優勝し、こうしてウィンブルドンの単複2冠を獲得した。そして、彼のアマチュア最後の舞台となった1947年全米選手権を迎える。2年連続3度目の男子シングルス決勝戦で、クレーマーはフランク・パーカーに 4-6, 2-6, 6-1, 6-0, 6-3 の逆転勝利を収めた。男子ダブルスではテッド・シュローダーと組み、このペアで6年ぶり3度目の全米男子ダブルス優勝を果たしている。最大の親友シュローダーとは、デビスカップでも息の合ったプレーを展開した。この全米選手権を最後に、ジャック・クレーマーはプロテニス選手契約書にサインする。彼は全豪選手権全仏選手権には1度も出場しなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャック・クレーマー」の詳細全文を読む




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