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ジェイムズ・マクリアリー : ミニ英和和英辞書
ジェイムズ・マクリアリー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェイムズ・マクリアリー : ウィキペディア日本語版
ジェイムズ・マクリアリー[ちょうおん]

ジェイムズ・ベネット・マクリアリー(、1838年7月8日 - 1918年10月8日)は、19世紀後半から20世紀初めのアメリカ合衆国ケンタッキー州出身の政治家弁護士である。ケンタッキー州を代表してアメリカ合衆国議会上下両院の議員となり、1875年から1879年まで第27代、1911年から1915年まで第37代と2回ケンタッキー州知事を務めた。
マクリアリーは法学校を卒業した直後に、南北戦争南軍ジョン・ハント・モーガン准将に仕え、ケンタッキー第11騎兵隊唯一の少佐となった。戦後は法律実務に戻った。1869年、ケンタッキー州下院議員に選ばれ、1875年まで務めた、下院議長には2回選ばれた。1875年、ケンタッキー州民主党の指名大会でマクリアリーを知事候補に選出した。知事選挙ではマクリアリーが共和党の対抗馬ジョン・マーシャル・ハーランに対し、楽勝で当選した。この時期は州内で1873年恐慌の影響が残っている時であり、知事としての行動の大半は州内の貧しい農夫の苦境を救済することに当てられた。
1884年、マクリアリーはアメリカ合衆国下院議員に選出され、以後6期(12年間)連続して務めた。この時代は自由銀を提唱し、州の農業に関する利権を擁護する者だった。アメリカ合衆国上院議員になるチャンスを2回逃した後、州知事J・C・W・ベッカムの支持を得て、1902年に州議会でアメリカ合衆国上院議員に選ばれた。この上院議員の任期6年間はあまり傑出した業績を残せず、再選を狙った1908年にはベッカムが離反したために落選した。しかし、マクリアリーとベッカムの不仲は長くは続かず、1911年にマクリアリーがケンタッキー州知事として2期目を求めた時には、ベッカムの支持を得ることができた。

1911年州知事選挙で、マクリアリーは進歩主義の綱領で選挙運動を行い、共和党のエドワード・C・オリアを破った。この2期目では、2代目となった州知事公舎の最初の住人となった。また旧公舎と新公舎の双方に住んだ唯一の知事となった。教育委員会の委員を選ぶ選挙では、議会を説得して女性の参政権を認めさせた。直接予備選挙を義務づけ、州の公共事業委員会を創設し、州内の郡には禁酒法を採用するか否かを住民投票で独自に判断できるようにした。教育費予算をかなり増加させ、義務教育法のような改革を成立させたが、議会におけるロビー活動を規制する法や、労働者の災害補償を行う法は成立させられなかった。州知事公舎の新築を監督する5人委員会の1人となり、その建設計画にかなりの影響力を行使した。知事の任期は1916年に明け、その2年後に死んだ。2期目の間に創設されたマクリアリィ郡は、マクリアリーの栄誉を称えて名付けられた。
== 初期の経歴 ==
ジェイムズ・ベネット・マクリアリーは1838年7月8日、ケンタッキー州リッチモンドで生まれた〔"McCreary, James Bennett". ''Biographical Directory of the United States Congress''〕。父はエドマンド・R・マクリアリー、母はサブリナ(旧姓ベネット)だった〔Harrison in ''The Kentucky Encyclopedia'', p. 597〕。初期の教育を地域の公立学校で受けた後、ダンビルのセンター・カレッジに入学し、1857年に学士号を得た〔〔Burckel in ''Kentucky's Governors'', p. 105〕。その後直ぐにテネシー州レバノンのカンバーランド大学に入学し、法律を勉強した〔McAfee, p. 118〕。1859年、カンバーランド大学から法学士号を得て、47人居た同級生の総代になった。その後法廷弁護士として認められ、リッチモンドで法律実務を始めた〔〔McAfee, p. 119〕。
1862年8月29日にリッチモンドの戦いが起こった直後、マディソン郡出身の南軍同調者デイビッド・ウォラー・シュノールトがリッチモンドに来て、南軍の連隊を立ち上げた。9月10日、シュノールトは大佐に任官され、ケンタッキー第11騎兵隊と名付けられた連隊の指揮を任された。マクリアリーもこの連隊に入隊し、少佐の任官を受けたが、少佐はこの連隊で只一人だった。ケンタッキー第11騎兵隊は直ぐに任務に就き、偵察やゲリラとの戦闘にあたった。その結成から3か月後、南軍がハーツビルの戦いで勝利するのに貢献した。1863年、ジョン・ハント・モーガン准将の軍に加わり、オハイオ州への襲撃に参戦した。シュノールト大佐は1863年7月4日のテブスベンドの戦いで、グリーン川橋を占領しようとしている時に戦死した。シュノールトの戦死後はマクリアリーが指揮を引き継いだ。この戦闘後、ジョン・ブレッキンリッジの推薦によりマクリアリーは中佐に昇進した〔Johnson, pp. 793–794〕。
1863年7月17日、ケンタッキー第11騎兵隊の大半がバッフィントン島の戦いで北軍に捕獲された。マクリアリーが指揮していた約200名の騎兵が突撃を掛けてから逃亡したが、翌日に包囲されて降伏した。マクリアリーはオハイオ州シンシナティの9番通り監獄に収容されたが、後にデラウェア砦(デラウェア州)に移され、最後はサウスカロライナ州モリス島に移って、1863年7月と8月の大半を捕虜として過ごした。8月下旬、捕虜交換で釈放され、バージニア州リッチモンドに連れて行かれた。その後30日間の賜暇を与えられ、ケンタッキーとサウスカロライナ兵の大隊指揮を任された。この部隊を指揮して主に偵察任務に当たったが、そのまま終戦になった〔Johnson, p. 794〕。
戦後は法律実務を再開した〔Powell, p. 62〕。1867年6月12日、ファイエット郡の裕福な農園主の一人娘、キャサリン・ヒューズと結婚した〔。この夫妻には息子が一人生まれた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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