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シンシナティ : ミニ英和和英辞書
シンシナティ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


シンシナティ : ウィキペディア日本語版
シンシナティ


シンシナティCincinnati)は、アメリカ合衆国オハイオ州南西端に位置する都市。州都コロンバスの南西約170km、ケンタッキー州との州境になっているオハイオ川の河畔に位置する。人口は296,943人(2010年国勢調査)〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. 2011年4月5日閲覧.〕で、コロンバス、クリーブランドに次ぐ州第3の都市である。シンシナティに郡庁を置くハミルトン郡を中心に、オハイオ・ケンタッキー・インディアナ3州の15郡にまたがる都市圏は2,114,580人、これに2つの小都市圏を加えた広域都市圏は2,174,110人(いずれも2010年国勢調査)〔の人口を抱えている。
1788年に創設され、その翌々年にシンシナティ協会から名を取ってシンシナティという地名がつけられた。19世紀前半から中盤にかけては、シンシナティは食肉加工の中心地、そしてオハイオ川の河港都市として発展し、1850年には全米第6の都市へと成長した〔Table 8. Population of the 100 Largest Urban Places: 1850 . U.S. Bureau of the Census. 1998年6月15日.〕。しかし、19世紀も後半に入り、交通の主役が蒸気船から鉄道へと移ると、その連節点として高い成長を遂げるようになったシカゴセントルイスに追い抜かれ、シンシナティは成長しながらも、その相対的な地位は低下した。その後も20世紀中盤までは緩やかではあるものの成長を続け、1950年には人口50万人を超えたが〔Table 18. Population of the 100 Largest Urban Places: 1950 . U.S. Bureau of the Census. 1998年6月15日.〕、その後は減少に転じている。
それでもなお、シンシナティは地域の経済、交通、教育、および文化の中心地の1つであり続けている。シンシナティ都市圏にはクローガープロクター・アンド・ギャンブルをはじめ、フォーチュン500に入る企業が7社本社を置いている。デルタ航空ハブ空港の1つであるとともに、DHLのスーパーハブであるシンシナティ・ノーザンケンタッキー国際空港を空の玄関口とし、陸路においても、3本の州間高速道路が交わる。ダウンタウンの北にはシンシナティ大学およびザビエル大学がキャンパスを構えている。MLBシンシナティ・レッズ、およびNFLシンシナティ・ベンガルズは、ともにシンシナティのオハイオ河岸に本拠を置いている。全米でも最古の部類に入るシンシナティ交響楽団やシンシナティ・オペラが本拠地とする音楽堂や、シンシナティ出身の大統領ウィリアム・タフトの異母兄の邸宅であったタフト美術館など、文化都市としての歴史の長さを示す文化施設も数多く立地している。
== 歴史 ==
シンシナティは1788年、マシアス・デンマン、ロバート・パターソン、およびイスラエル・ルドローの3人の入植者によって、オハイオ川北岸のこの地に創設された。その後、ジョン・フィルソンがデンマンから800エーカー(323ha)の入植地の1/3を購入し、ロサンティビルと名付けた。その翌々年の1790年北西部領土総督アーサー・セントクレアは、ジョージ・ワシントンが会長を務め、自身も所属していたシンシナティ協会の名を取って、シンシナティと改称した。 初期の移民にはドイツ系が多く、そのうちの1人で、セントクレアの後任としてこの地にあったワシントン砦に入城していたデイビット・ジーグラーが1802年にシンシナティの初代市長となった〔Goss, Charles Frederic. ''Cincinnati: The Queen City, 1788-1912.'' Vol.2. p.9. Chicago: S.J. Clarke Publishing Co. 1912年.〕。やがて1819年、シンシナティは市として正式に法人化された。

初期のシンシナティは食肉加工、殊に豚肉加工の中心地として発展し、''Porkopolis''(豚肉の都)と呼ばれた〔Cincinnati, Ohio . Ohio History Central. 2015年3月25日閲覧.〕。また、オハイオ川の河港であったシンシナティは19世紀前半から蒸気船が寄港する水上交通の拠点、および蒸気船製造の拠点として発展し〔、1825年に建設の始まったマイアミ・エリー運河がその成長を促した。マイアミ・エリー運河はオハイオ川の支流であるグレートマイアミ川を起点に北進し、1827年に北郊のミドルタウンまで開通し供用開始、その後1830年デイトンまで、そして1840年にはエリー湖岸のトレドまで延伸した。加えて陸上においても、1836年にリトル・マイアミ鉄道の建設が認可され.〔Vexler, Robert. ''Cincinnati: A Chronological & Documentary History''.〕、1846年スプリングフィールドまで全通、1849年にはスプリングフィールドまで開通したマッド・リバー・アンド・レイク・エリー鉄道と接続して、エリー湖のサンダスキー湾の湖港へとつながった。1853年には、リトル・マイアミ鉄道の途中駅ゼニアでコロンバス・アンド・ゼニア鉄道と接続して、州都コロンバスへと至る鉄道交通も確立された。商業も早い時期から発展し、街にはオハイオ川を下ってさらに西を目指す入植者の需要に応えるようにホテルやレストラン、酒場が建ち並び〔、1837年にはプロクター・アンド・ギャンブルが創立した。市のこうした急成長の最中、シンシナティの住民は市を''Queen City''(女王都市)と呼ぶようになった。1850年には、シンシナティは115,435人の人口を抱え、ニューヨーク(515,547人)、ボルチモア(169,054人)、ボストン(136,881人)、フィラデルフィア(121,376人)、ニューオーリンズ(116,375人)に次ぐ全米第6の都市に成長していた〔。

南北戦争前夜には、オハイオ川1本隔てた対岸は南部の奴隷州という立地から、シンシナティは自由を求めてオハイオ川を渡った逃亡奴隷をさらに北へと逃がす地下鉄道の重要な拠点、そして奴隷制廃止運動の中心地となった。ハリエット・ビーチャー・ストウはシンシナティに住んでいた間、逃亡奴隷に会い、その話を基にして「アンクル・トムの小屋」を書き上げた。リーヴァイ・コッフィン1847年インディアナ州からシンシナティに移り、ここを奴隷制廃止活動の拠点とした〔Levi Coffin, ''Reminiscences of Levi Coffin, the reputed president of the underground railroad: being a brief history of the labors of a lifetime in behalf of the slave, with the stories of numerous fugitives, who gained their freedom through his instrumentality, and many other incidents'', Cincinnati: Western tract society, University of Michigan Library.〕。
しかしそれと同時に、逃亡奴隷を捕捉して南部へ送り返そうとする者や、奴隷制廃止に反対の立場を取る者もまた多くいた。またこの時期のシンシナティの地域経済自体が、奴隷州との通商に大きく支えられていた。こうした背景から、19世紀中盤のシンシナティではしばしば人種がらみの暴動が起きた。1829年には、奴隷制廃止反対派が市内の黒人を攻撃し、暴動となった。この結果、1,200人の黒人が街を離れ、カナダに避難した〔Woodson, Carter Godwin. ''The Negro in Our History''. p.140. Associated Publishers. 1922年.〕。この暴動と避難は全米で議論を呼び、1830年にフィラデルフィアで第1回黒人会議が開かれるに至った。1836年には、700人の奴隷制廃止反対派が群れを成して黒人居住地区に攻撃を仕掛け、また奴隷制廃止派の週刊誌、''The Philanthropist''誌の本社を破壊した〔The Pro-Slavery Riot in Cincinnati . Abolitionism 1830-1850, ''Uncle Tom's Cabin and American Culture''. University of Virginia. 1998-2007年. 2015年3月16日閲覧.〕。同種の暴動は1841年にも起きた〔Aaron, Daniel. ''Cincinnati, Queen City of the West: 1819-1838''. p.300. Ohio State University Press. 1992年. ISBN 0-8142-0570-4.〕。1850年逃亡奴隷法が成立すると、そうした緊張はさらに高まった。
南北戦争中には、シンシナティはその地理的条件から、北軍の重要な兵站拠点としての役割を果たすとともに、オハイオ軍管区の司令部が置かれた。また、郊外には新兵の徴集、訓練、および負傷兵の治療の拠点としてキャンプ・デニソンが設置された。その一方で、シンシナティは南軍にとっては格好の標的であった。1862年9月には、南軍の准将ヘンリー・ヒースが約8,000の兵を率いてシンシナティに侵攻しようとした。しかし、北軍の少将ルー・ウォーレスが指揮する約25,000のオハイオ軍に加えて、州知事デイビッド・トッドの号令で集結した、''Squirrel Hunters''(リス猟師)と呼ばれた約60,000の民兵が街の守りに就き、ヒース隊を撤退させた〔Roth, David E. Squirrel Hunters to the Rescue . Ch.III. ''Panic on the Ohio!: Confederates March on Cincinnati, September 1962''. ''Blue & Gray Magazine''. Columbus, Ohio. 1986年4-5月. 2015年3月24日閲覧. (PDFファイル)〕。シンシナティの防衛成功により、ウォーレスは一躍、この地の英雄として讃えられた〔Walden, Geoffrey R. The Defenses of Cincinnati . Ch.IV. ''Panic on the Ohio!: Confederates March on Cincinnati, September 1962''. ''Blue & Gray Magazine''. Columbus, Ohio. 1986年4-5月. 2015年3月24日閲覧. (PDFファイル)〕。

南北戦争が終わると、蒸気船に代わって、鉄道交通が目覚ましい成長を遂げたが、主要路線の多くは東部と北西部を結ぶものであった。シンシナティ市当局は工業化の進む中西部南部の天然資源をもたらすのみならず、戦後復興の進む南部市場にアクセスする手段ともなる鉄道の必要性を認識し、1869年にシンシナティ・サザン鉄道を建設する法案を可決した。この鉄道は11年後の1880年に開通し、シンシナティとテネシー州チャタヌーガとが結ばれた〔About . Cincinnati Southern Railway. 2015年3月25日閲覧.〕。
19世紀後半のシンシナティでは食肉加工に加えて、製鉄、繊維、木材加工といった産業が発展した〔。また、1889年には、もともとは馬車であったストリートカーが電化された〔O'Neill, Tom. Exhibit commemorates the streetcar era . ''The Cincinnati Enquirer''. 2001年8月18日. 2015年3月25日閲覧.〕。しかし、この頃になると、大陸横断鉄道の連節点となったシカゴセントルイスが急速な成長を遂げ、また州内でも製鉄をはじめとする重工業都市としてクリーブランドが台頭してきたこともあり、シンシナティは成長を続けながらもその相対的な地位を落とした。それでもなお、1900年に至るまで、シンシナティは全米10大都市の1つに名を連ねていた。1929年世界恐慌の際には、シンシナティが受けた経済的打撃は、鉄道よりも安価であるという理由による河川交通の盛り返しで相殺され、結果として全米の他の大都市に比べると軽微なものにとどまった。

20世紀に入ると、シンシナティにも超高層ビルが建てられるようになった。1913年に完成したユニオン・セントラル・タワー〔Rolfes, Steven J. ''Cincinnati Landmarks''. p.20. Arcadia Publishing. 2012年. ISBN 9780738593951.〕(現称: PNCタワー)は、31階建て、高さ151mで、当時としては世界で5番目に高いビルであった〔PNC Tower . Emporis. 2015年3月26日閲覧.〕。1931年には、カリュー・タワーが、世界恐慌の影響で建設費削減のためのデザイン変更を余儀なくされながらも完成した〔Carew Tower . Emporis. 2015年3月26日閲覧.〕。
シンシナティの人口は20世紀に入っても中盤まで緩やかではあるものの増え続け、1950年には人口503,998人でピークに達した〔。しかし、それ以降は全米の、特に東部・中西部の他の多くの大都市と同様、高速道路網の発達による郊外への人口流出等の要因によって、シンシナティの人口は減少に転じた。
1970年代以降、シンシナティはダウンタウンを活性化する試みを行ってきた。1971年には、天候や路上の交通渋滞を気にせずにダウンタウン内を行き来できるよう、ダウンタウンの中心、ファウンテン・スクエアと、その3ブロック西のコンベンションセンターとを結ぶスカイウォークが設置された。このスカイウォークは1970-80年代にかけて立て続けに延伸され、1997年に全長2.1kmが完成した。しかし2000年代に入ると、スカイウォークの存在によって地上を行き来する歩行者が減り、ダウンタウンの活性化の妨げになっているという指摘がなされるようになり、経路途中のビルや施設の取り壊しや改修もあいまって、スカイウォークの一部が取り壊されていき、途切れるようになった〔Alltucker, Ken. Downtown Skywalk Falls into Disfavor . ''Cincinnati Enquirer''. 2003年6月1日. 2015年4月5日閲覧.〕〔Yung, John. The Story behind Cincinnati's Slowly Disappearing Skywalk System . ''Cincinnati Business Courier''. 2012年2月24日. 2015年4月5日閲覧.〕。2003年には、ダウンタウンやその北に隣接するオーバー・ザ・ライン地区の再生をミッションとする、シンシナティ都心開発公社(3CDC)が設立された〔Who We Are . Cincinnati Center City Development Corporation. 2015年4月5日閲覧.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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