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シャムスッディーン・イリヤース・シャー : ミニ英和和英辞書
シャムスッディーン・イリヤース・シャー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

シャムスッディーン・イリヤース・シャー : ウィキペディア日本語版
シャムスッディーン・イリヤース・シャー[ちょうおん]
シャムスッディーン・イリヤース・シャー(Shamsuddin Ilyas Shah, 生年不詳 - 1357年)、東インドベンガル・スルターン朝イリヤース・シャーヒー朝の君主(在位:1342年 - 1357年)。
==生涯==
シャムスッディーン・イリヤース・シャーの出生に関しては、東部イランシースターンの出身と記録があるのみで、それ以上のことは不明である〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131〕。
イリヤース・シャーは北ベンガルの長官であるアラー・ウッディーン・アリー・シャーの下で台頭したが、1342年に彼を殺害し、その地位を奪った〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。当時、ベンガル地方は北ベンガル(ラクナーワティー)、西ベンガル(サトガーオン)、東ベンガル(ソーナールガーオン)に分かれており、それぞれ長官が統治していた〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.56〕。
同年、長官であったイリヤース・シャーはトゥグルク朝から独立し、ベンガル・スルターン朝を創始した(イリヤース・シャーヒー朝)〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。創始者シャムスッディーン・イリヤース・シャーはベンガルの独立を強く意識し、その正当性と権威と明白にするため、自分の硬貨に「第2のアレクサンドロス、カリフの右腕」と記している〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕。
1346年までにイリヤース・シャーはベンガル地方の政治的統一に成功したのち、対外遠征を敢行した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。彼はビハールを征服、オリッサ(東ガンガ朝)とネパール(マッラ朝)にも侵攻し、遠くチベットにまで遠征した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。ネパールやオリッサとの戦いでは莫大な戦利品を獲得した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。
ことに1349年のイリヤース・シャーのネパールのカトマンズ盆地への侵攻は、この地を支配していたマッラ朝に壊滅的な打撃を与え、政情不安をもたらした〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316〕。彼の軍勢は首都バクタプルのみならず盆地の都市カトマンズパタンを蹂躙し、その地の寺院、家屋を破壊・放火して、全土を灰燼に帰した〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316〕。盆地では7日間にわたり徹底して破壊、略奪を行い、そののちベンガルへと帰還した〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316〕。
また、イリヤース・シャーはオリッサに侵入した際、ジャージナガルを攻撃し、あらゆる抵抗を打ち破ったのち、チルカー湖まで進撃したという〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.169〕。ベンガルに帰還したとき、彼は多数のゾウを含めた戦利品を持ち帰ったとされる〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.169〕。
イリヤース・シャーの絶え間ない征服活動の結果、領土はティルフットからチャンパランゴーラクプルへと広がり、ヴァーラーナシーにまで版図を広げた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。だが、ベンガル・スルターン朝の台頭はトゥグルク朝にとって脅威であった〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。
そのため、1353年にトゥグルク朝の君主フィールーズ・シャー・トゥグルクは失地回復のため、ベンガルへと遠征軍を進めた。軍勢はチャンパランやゴーラクプルを通過し、ベンガルの首都パーンドゥアーを攻め落とした〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。
イリヤース・シャーはガンジス川とその支流に囲まれた強力なエクダーラーの要塞へと逃げ、そこに籠城した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。2ヶ月の包囲ののち、フィールーズ・シャーは退却するそぶりを見せ、イリヤース・シャーを誘い出して出てきたところで打ち破った〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。だが、イリヤース・シャーはエクダーラーへと再び逃げ、籠城し続けた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。
その後、1354年にトゥグルク朝とベンガル・スルターン朝の間で和平が結ばれ、コシ川を両国の国境とすることが定められた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.29〕。イリヤース・シャーはフィールーズ・シャーと贈り物を交換し、トゥグルク朝の軍はデリーへと引き上げた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。デリーとの友好的な関係を構築したことにより、イリヤース・シャーは東のアッサム方面へと支配を拡大することが出来た〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。
1357年、イリヤース・シャーは死亡し、息子のシカンダル・シャーが王位を継承した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。
イリヤース・シャーは治世中に多くの業績を残した。そのの成功の要因のひとつは彼自身の人気にあったことである、と歴史家サティーシュ・チャンドラは述べている。フィールーズ・シャーがパーンドゥアーを占領したのち、貴族や聖職者らに人気を得るために土地を与え、都市の住民を味方にしようと試みたが、失敗している〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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