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サミュエル・フッド・リンゼー : ミニ英和和英辞書
サミュエル・フッド・リンゼー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

サミュエル・フッド・リンゼー : ウィキペディア日本語版
サミュエル・フッド・リンゼー[ちょうおん]

サミュエル・フッド・リンゼー(Samuel Hood Linzee、1773年12月27日-1820年9月1日)はイギリス海軍提督である。フランス革命戦争ナポレオン戦争で活躍した。
==人物==
リンゼーはデボン州プリマスに、ジョン・リンゼーとスザンナ・インマン夫妻の息子として生まれ、サミュエル・フッドに敬意を表してこの名前が付けられた。フッドは、父ジョンのいとこスザンナの夫だった。ジョンはイギリス海軍の艦長であり、アメリカ独立戦争時の1774年10月から1776年7月より後まで、スループ船を指揮して、1775年バンカーヒルの戦いを目撃した。幼い息子サミュエルも、ファルコンの兵員名簿にキャプテンズ・サーバントそして先任書記として登録されたが、この当時にサミュエルが乗艦していたというのは現実性に乏しい。幼い頃から名簿に登録されていたため、海尉志願者は、目的を達するまでに、相当な年月を要することになった。リンゼーはその後、1790年7月21日、わずか16歳半にして海尉に就任した。1793年11月5日には指揮官となり、1794年3月8日にとなった。このポストキャプテン就任は、20歳になって2か月後のことで、28門の6等級フリゲート艦の指揮をまかされた。
1795年12月9日フランスのフリゲート艦センサブルとコルベット艦サルディーヌが、の中立海域に投錨していたネメシスを拿捕した。ネメシスそのものは抵抗しなかったが、リンゼーはこの行為の違法性に異議申し立てをした。イギリス艦とがこの3隻を取り囲んだが、の戦隊がやって来て2隻のイギリス艦を追い払った。1796年1月に、フランス軍はネメシスをチュニスに連行したが、3月9日にイギリス軍がネメシスを取り返した〔。リンゼーはその後ベネチアウィーンドレスデンプラハそしてベルリンを回り、最終的にハンブルクからの定期船でイギリスに戻った〔。
1801年1月26日午前8時のことだった〔。リンゼーは36門艦の指揮に就いたばかりだった〔。この36門艦ワゾー(オイソー、かつてのフランス艦)から視界に入ったのは、やはり36門のフランスのフリゲート艦を発見した。このフリゲート艦は、特使の艦に同行してカイエンヌからロシュフォールに向かう途中であった。ワゾーは単独でデダニューズを追跡し、翌日の正午、フィニステレ岬が視界に入るようになった頃、2隻のイギリスのフリゲート艦とがこの追跡に加わった。結局デダニューズは、1月28日の2時45分ごろワゾーに降伏し、イギリス海軍の所有艦となった〔。
1801年4月2日コペンハーゲンの海戦で、リンゼーは74門艦ゼラスの指揮を執った。この艦は少将の艦隊に所属していた。この艦隊は翌1802年にイギリスからポート・ロイヤルまで公開し、その年の5月に帰国した〔。
その後1805年から翌1806年の4月まで、74門艦ウォーリアの指揮官を務めた〔。この艦はロバート・カルダーの艦隊の1隻で、この時期、カルダーは仏西連合艦隊を相手に、フィニステレ岬の海戦を戦った。1805年7月22日のことだった〔。
1807年2月、74門艦の指揮官となった。マイダの指揮官としての最初の任務には、3月6日に、軍法会議の委員の一員として、のの裁判に立ち会ったことも含まれていた。1807年7月19日、リンゼーはマイダを指揮してを行い、デンマーク艦隊を拿捕した〔。
その後バーフラーの指揮官を、1809年の1月から2月までの短期間務め、その後1811年までは、トライアンフを指揮した〔。の指揮も1810年8月から1811年12月まで務め、1812年3月にはテメレーア〔、そして同年の4月から8月まではに乗務した〔。また、1811年7月20日には海兵隊大佐を委任された〔。。
リンゼーは1812年8月12日に提督となって青色少将に昇進し、その後12月4日には白色少将1813年6月4日には赤色少将、そして1819年8月12日に最終階級の青色中将となった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サミュエル・フッド・リンゼー」の詳細全文を読む




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