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サミュエル・ピープス : ミニ英和和英辞書
サミュエル・ピープス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

サミュエル・ピープス : ウィキペディア日本語版
サミュエル・ピープス[ちょうおん]

サミュエル・ピープスSamuel Pepys, 1633年2月23日 - 1703年5月26日)は、17世紀に活躍したイギリスの官僚。王政復古の時流に乗り、一平民からイギリス海軍の最高実力者にまで出世した人物であり、国会議員及び王立協会の会長も務めた。一般には1660年から1669年にかけて記した詳細な日記で知られているが、官僚としての業績も大きく、王政復古後の海軍再建に手腕を発揮したことにより「イギリス海軍の父」とも呼ばれている。
== 生涯 ==

ロンドンの仕立屋の子として生まれた。ケンブリッジ大学を卒業後、大蔵省の役人や親戚のエドワード・モンタギューに雇われた。その頃フランスから亡命したプロテスタントの娘エリザベスと結婚。
1660年、当時サミュエル・ピープスの雇い主だったエドワード・モンタギューは議会派に任命されたジェネラル・アット・シー(General at Sea)〔革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた。〕の1人だったが、地方に隠遁していた。そして、ピープスがロンドンに残り、議会の動向をモンタギューに報告していた。
王政復古の宣言がされると、ジェネラル・アット・シーの筆頭格だったジョージ・マンク将軍が王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーであるモンタギューに対し艦隊を率いて国王を亡命先のオランダへ迎えに行くよう指示した。ピープスからの情報により情勢を把握していたモンタギューは王党派に付くことを決断し、マンクの指示通りイングランド艦隊を掌握してオランダからチャールズ2世を連れ帰った。
チャールズ2世が王位に就くと、モンタギューはその功によって初代サンドウィッチ伯爵(1st Earl of Sandwich)に叙せられた〔サンドイッチの語源で知られる第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギューはエドワードの末裔に当たる。〕。ピープスもモンタギューの推薦により、ネービー・ボード(Navy Board)〔海軍委員会とも訳される。アドミラルティの下に置かれ、艦艇の建造や補修等、艦隊を管理する事務部門。〕の長官に任命された。ネービー・ボード長官になってもモンタギュー家の執事としての仕事を続けており、彼の日記には「役所の帰りにモンタギュー家の経理を処理した」と言った記述が見られる。
1665年王立協会のフェローに選出される。
1669年、休暇を取って妻とフランス・オランダを旅するが、帰国後間もなく妻はチフスで急逝した。
1673年にはアドミラルティ〔海軍の軍政と軍令を統括する機関であり、海軍省とされることもあるが、海軍本部と訳されることが多い。後の時代の組織は海軍省に相当するが、当時は海軍総司令官であるロード・ハイ・アドミラルの事務室と言った規模であった。そのため、他国の相当する官庁が海軍省と訳されるのに対し、規模が拡大しても同じ呼称が続いて来たアドミラルティは海軍本部と訳される。〕の書記官(Secretary to the Admiralty)〔海軍省書記官長とも訳される。〕に就任し、1679年まで務めた。海軍省での仕事には余得も多く、熱心に働いて蓄財に励んだ。また様々なことに好奇心旺盛で、初期の王立協会会員となり、1684年から1686年にかけては王立協会会長を務めている。
1684年にはチャールズ2世がロード・ハイ・アドミラルとなり、ピープスはその下で再度アドミラルティ書記官に就任した。チャールズ2世の死後は弟のジェームズ2世がロード・ハイ・アドミラルの職を継いだが、1688年名誉革命でジェームズ2世が亡命すると、翌年ピープスも公職を引退した。1703年に逝去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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