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コンラッド・シュニッツラー : ミニ英和和英辞書
コンラッド・シュニッツラー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

コンラッド・シュニッツラー : ウィキペディア日本語版
コンラッド・シュニッツラー[ちょうおん]

コンラッド・シュニッツラー(''Conrad Schnitzler'', コンラート・シュニッツラー1937年 - 2011年8月4日)は、ドイツアーティスト
== 人物 ==
デュッセルドルフ出身。父親はオーケストラ奏者で、ときどき作曲をすることもあった。しかし、父親から音楽を教わることは一切なかったため影響は受けておらず、後々かえってそれがよかったと本人は回想している。
14歳のときにカールハインツ・シュトックハウゼン電子音楽を初めて聞き、多大な影響を受けた。また、その他にもジョン・ケージなどから影響を受けた。
音楽や音響芸術が活動の中心となったのは1960年代ベルリンに移り住んでからのことだ。それ以前は彫刻や絵画(ドローイング)・写真などをやっていて、ファインアートの世界ではちょっと知られた存在だった。1961年ヨーゼフ・ボイスがデュッセルドルフ芸術アカデミーの彫刻科教授になったときに、クラスに入った最初の生徒となった逸話は、何かにつけて取り沙汰されている。しかし、在籍期間が短かったこともあって、影響を受けることはなかったとシュニッツラー本人は語った。
1969年にZodiak - Free Arts Labというクラブを数人の仲間と設立後、タンジェリン・ドリーム1969年から1970年)とクラスター1970年から1971年)といった西ドイツ(当時)・ベルリンの実験的なクラウト・ロックのグループの創始メンバーとなったが、それ以降はソロで活動を続ける。1972年シンセサイザーEMS Synthi Aが発売されることを聞くと、わざわざイギリスまで渡り、購入した。(その際、クラフトワークの分と併せて2台購入した逸話が残されている。)それ以降、電子音楽や電子音響の作品を制作しており、エレクトロニック・ミュージックの重要人物の一人だと言われている。2009年末時点で、彼は実に800以上の作品をリリースしているが、その多くが自主制作によるものである。その中には、先述の電子音響の他、前衛的な現代音楽ジャズ的要素を持つ電子音楽、インダストリアル、さらにテクノポップまでもが含まれる。
彼は、音楽家ではなく、インターメディア・ライフ・アーティストを自称している。他の多くの音楽家達と異なる点は、彫刻、絵画、グラフィック・デザイン、映像といった他のメディアで培った経験や手法を、音楽や音響作品にも応用している点である。また、パフォーマンスアートを行うこともあったが、こうした芸術活動の根底には、フルクサス運動からの影響がある。
映画みえない雲』の監督などで知られるグレゴール・シュニッツラーは彼の息子である。
2011年8月4日、胃がんのため死去。74歳没〔謹んでお知らせいたします コンラッド・シュニッツラー公式サイト 2011年8月6日21時25分更新〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コンラッド・シュニッツラー」の詳細全文を読む




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