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コソヴォ紛争 : ミニ英和和英辞書
コソヴォ紛争[ふんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

紛争 : [ふんそう]
  1. (n,vs) dispute 2. trouble 3. strife 

コソヴォ紛争 ( リダイレクト:コソボ紛争 ) : ウィキペディア日本語版
コソボ紛争[こそぼふんそう]

コソボ紛争(コソボふんそう、アルバニア語:、セルビア語:、英語:)は、バルカン半島南部のコソボで発生した2つの武力衝突を示す。
# 1996年 - 1999年ユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人のテロリスト組織コソボ解放軍との戦闘
# 1999年1999年3月24日から6月10日にかけて行われたNATOによるアライド・フォース作戦、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が起こった
なお、セルビア語とアルバニア語で地名が異なる場合、この記事では「アルバニア語呼称 / セルビア語呼称」のように表記する。
== NATO介入前 ==

=== 1945年-1986年: 共産主義時代のユーゴスラビアにおけるコソボ ===

セルビア人、アルバニア人の間には20世紀を通して常に民族間の対立があり、大規模な暴力行為へと頻繁に結びついた。特に第一次世界大戦第二次世界大戦戦間期には頻発した。第二次世界大戦後、社会主義体制をとるヨシップ・ブロズ・チトーの政府はユーゴスラビア全域において民族主義者の活動を体系的に抑止し、ユーゴスラビアのいかなる構成国も、ヘゲモニー(覇権)となってユーゴスラビアを牛耳ることのないように努めた。特に、セルビアは、ユーゴスラビアの中で最大で、最も多くの人口を抱えていた。そのため、セルビアの影響力を制限するために、セルビア北部のヴォイヴォディナと南部のコソボ・メトヒヤはそれぞれヴォイヴォディナ自治州コソボ・メトヒヤ自治州としてセルビア本体から切り離された。コソボの国境はユーゴスラビアにおけるアルバニア人の居住地域の境と完全には一致していなかった。多数のアルバニア人住民はコソボ域外のマケドニアモンテネグロセルビア本体に残された一方、コソボの北部には多くのセルビア人が住む地域が含まれた。いずれにしても、新設されたコソボの領域全体では、1921年の段階でアルバニア人が多数派であった。
コソボの公的な自治は1945年にユーゴスラビア憲法によって定められ、大きな自治権は与えられなかった。チトーの秘密警察(UDBA)は民族主義者を厳しく弾圧した。1956年には、多くのアルバニア人がコソボにおいて国家転覆の企てとスパイの容疑で訴追された。分離主義による脅威は実際にはそれほど大きなものではなく、少数の地下活動組織がアルバニアへの統合を求めて活動しているのみであり、政治的には大きな影響力を持ち得なかった。しかしながら彼らの活動のもたらす長期的な影響は小さくなく、アデム・デマツィ(Adem Demaci)によって組織されたアルバニア人統一革命運動は、後のコソボ解放軍()の政治的中核となっていった。デマツィ自身は1964年に他の賛同者らとともに投獄されている。
ユーゴスラビアでは1969年、政府による大規模な経済再建プログラムによって豊かな北西部と貧しい南部の地域の間で貧富の差が拡大し、政治的・経済的な危機を迎えていた。しかしながら、ユーゴスラビアおよびセルビアにおける真のアルバニア人の代表の設置を求め、アルバニア語の地位向上を求める学生らの要求に、チトーは応じることになった。1970年には、ベオグラード大学の下部組織であったプリシュティナ大学が独立の教育機関として設置された。コソボにおける教育のアルバニア語化は、ユーゴスラビア国内でのアルバニア語教材の不足により困難となったが、アルバニア人自身が教材を用意することで合意された。
1974年、コソボの政治的地位はユーゴスラビアの憲法改正に伴って大きく向上し、コソボの政治的権利は拡大された。ヴォイヴォディナとともに、コソボは他のユーゴスラビア構成国と多くの面において同等の地位を持つコソボ社会主義自治州となった。政治権力は依然として共産主義者同盟が独占していたものの、独自のコソボ共産主義者同盟がその中核を担うようになった。
1980年5月4日のチトーの死によって、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況は次第に悪化していった。コソボで最初に発生した大規模な衝突は1981年3月、アルバニア人の学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土に急速に拡大し、各地で大規模なデモが発生するなど、国家的反乱の様相を呈した。抗議者らはコソボをユーゴスラビアの7番目の構成共和国とすることを求めた。しかしながら、この要求はセルビアおよびマケドニアには受け入れられるものではなかった。多くのセルビア人たち、そしてアルバニア人民族主義者ら自身も、この要求は大アルバニア主義への始まりとみていた。大アルバニア主義はコソボ全土とモンテネグロ、マケドニアの一部をアルバニアへと組み込むことを目的としている。ユーゴスラビアの共産主義政府は非常事態を宣言し、軍や警察を大量投入して反乱を鎮圧した。しかし、このことによってセルビアの共産主義者らが要求していたコソボの自治権廃止には至らなかった。ユーゴスラビアの新聞は、11人が死亡し、4,200人が投獄されたと発表した。別のものはこの騒動での死者は1000人を超えるものと主張している。
コソボ共産主義者同盟の間にも粛清が行われ、その党首をはじめ重要人物らが追放された。あらゆる種類の民族主義に対して強硬路線がとられ、セルビア人、アルバニア人双方の民族主義者らに対する取締りが行われた。コソボには大量の秘密警察が配置され、当局に認められていないセルビア人、アルバニア人双方の民族主義の活動を厳しく弾圧した。マーク・トンプソン(Mark Thompson)の報告によると、コソボの住民580,000人が逮捕され、尋問され、拘留され、あるいは懲戒された。数千人が職を失い、あるいは教育機関から追放された。
この間、アルバニア人とセルビア人の共産主義者の間の緊張は高まり続けていた。1969年セルビア正教会はその主教に対してコソボでセルビア人に対して起こっている問題に関する資料収集を命じ、ベオグラードの政府に対してセルビア人の立場を守るよう圧力をかけることを模索した。1982年2月、セルビア本国からセルビア人の神品(聖職者)らの集団が「なぜセルビア正教会は沈黙しているのか、なぜ進行中のコソボの聖堂に対する破壊行為、放火、冒涜行為に対して抗議活動をしないのか」と求めた。このような懸念はベオグラードの政府の関心をひきつけた。コソボにおいてセルビア人やモンテネグロ人が迫害を受けているとする多くの話が日々紹介された。恐怖と不安定化を招く重大な事実として、コソボのアルバニア人マフィアによる麻薬取引の話があった。
これらに加えて、コソボの経済状態の悪化が不安定化に拍車をかける要因となった。コソボの経済状態の悪化によってコソボのセルビア人は同地で職にありつく機会は失われていった。アルバニア人、セルビア人ともに、新しく労働者を採用する際には同じ民族の者を優遇したが、求職の数そのものが人口に対して極端に少ない状態となった。終局には、アルバニア人を自称している者の中に多くのイスラム教の信仰を持つようになったロマが含まれていると信じられるに至った。コソボはユーゴスラビアの中で最も貧しく、1979年の時点で一人当たりGDPは795ドルであった。これに対してユーゴスラビア全土での平均は2635ドル、最も豊かなスロベニアでは5315ドルであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コソボ紛争」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kosovo War 」があります。




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