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ケーリー・グラント : ミニ英和和英辞書
ケーリー・グラント[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ケーリー・グラント : ウィキペディア日本語版
ケーリー・グラント[らん]

ケーリー・グラントCary Grant, 1904年1月18日 - 1986年11月29日)は、イギリス出身の俳優
== 経歴 ==
アーチボルド・アレグザンダー・リーチ(Archibald Alexander Leach)としてイギリスのブリストルで生まれ、混乱した不幸な幼年期を過ごす。ケーリーが9歳の時、母親が精神疾患が原因で行方不明となり、父親はケーリーに真実を話さなかった。ケーリーが母親の生存を知ったのは、ケーリーが31歳になってからのことであった〔Schwarz, Benjamin. "Becoming Cary Grant." ''The Atlantic,'' January/February 2007. Retrieved: January 18, 2011.〕。父親はケーリーが10歳の時に息子を捨て、後に別の女性と再婚してしまう〔"Cary Grant's LSD gateway to God." ''smh.com.''〕。母親の失踪は、以後ケーリーの私生活(特に女性関係)や秘密主義に影響し、それはまた魅力ともなった。そのような特質はケーリーの演技に直接現れ、アルフレッド・ヒッチコック作品などで垣間見ることができる。
ケーリーはその不幸な幼年期の経験から賞賛と注目を渇望するようになり、人々の目を引きつける新しい人格を創り上げた。1918年にブリストルのフェアフィールド・スクールから放校処分を受けた後、ボブ・ペンダー演劇一座に加わる。ケーリーは一座と共に2年間のアメリカ公演旅行を行った。一座はイギリスに戻ったが、ケーリーはアメリカに留まった。ケーリーは俳優として独立し、上流階級のアクセントを混ぜたユニークなアクセントと人物像を作り出した。ブロードウェイのコメディで成功を収めた後、1931年ハリウッドでの仕事を得て、「ケーリー・グラント」の芸名を使い始めた。
1932年には早くもジョセフ・フォン・スタンバーグの『ブロンド・ヴィナス』でマレーネ・ディートリヒらと共演。1935年にはジョージ・キューカーの『男装』でキャサリン・ヘプバーンと共演。以後もジョージ・キューカーハワード・ホークスジョージ・スティーヴンススタンリー・ドーネンなどの監督作品で活躍した。1941年の『愛のアルバム』と1945年の『孤独な心』ではアカデミー主演男優賞にノミネートされたが、受賞はしていない。
また、アルフレッド・ヒッチコックのお気に入りで〔Nelson and Grant 1992, p. 325.〕、『断崖』『汚名』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』の4本に出演している。
1950年代には自身の制作会社「Granart Productions」を設立し配給も手掛けた。グラントは、スタジオ・システムを抜け出して成功した初めての俳優といえる。
俳優のローレンス・オリヴィエとは同じイギリス人の誼で長年、親交があった。ケーリーは「スター」、オリヴィエは「演技派」と評され、俳優としては別々な道を歩んだが、オリヴィエはグラントのことを「映画が始まってすぐに、演出に頼らず、観客に『この人のようになりたい!』と思わせることが出来る唯一の俳優」との賛辞を送っている。
スターでありながら大変な倹約家で、レストランではなく撮影所内の食堂で食事をした。また、撮影でホテル住まいになると、会社が用意した高級ホテルをキャンセルし、格下の普通ランクのホテルに滞在。その宿泊料の差額を正確に要求した。
1965年10月に映画『歩け走るな!』(引退作)の日本ロケで来日し、その後1971年にも来日している。
1970年アカデミー名誉賞を受賞。1986年アイオワ州ダベンポートでの劇場ショーのリハーサル中に倒れ、病院に運ばれたが脳卒中で急逝した。葬儀では火葬され、遺灰はカリフォルニア州の大地に撒かれた。
ハリウッドに所在するソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント内のダビングスタジオには、グラントの名を冠した「ケーリー・グラント・シアター(ケリー・グラント・シアター)」が所在する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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