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グラン浜田 : ミニ英和和英辞書
グラン浜田[ぐらんはまだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [はま]
 【名詞】 1. beach 2. seashore 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

グラン浜田 : ウィキペディア日本語版
グラン浜田[ぐらんはまだ]

グラン浜田(グランはまだ、1950年11月27日 - )は、日本男性プロレスラー。本名は濱田 廣秋(はまだ ひろあき)。群馬県前橋市出身。身長167cm、体重90kg。その軽量な体を生かしてルチャリブレを活動の中心としている。また最も著名な日本人ルチャドールの1人とされ、日本およびメキシコにおいて顕著な活躍を残している。
娘のソチ浜田浜田文子もプロレスラーである(正確には、ソチ浜田は夫人の連れ子であり、浜田文子とは異父姉妹となる)。
身長も小さく、ルチャでの活躍とスタイルからシュート系の強さと無縁と思われがちだが、浜田自身は柔道ミュンヘンオリンピック候補選手であり、その気の強さも相まって昭和新日本プロレスの中でも有数の猛者であった。治安の悪いメキシコで成功した理由に、プロレスセンスの良さとシュートの強さが比例していた背景がある。
== 来歴 ==
樹徳高校中央大学河合楽器製作所において柔道の選手として活動。1972年、友人の関川哲夫(のちのミスター・ポーゴ)が新日本プロレスへ入団志願に向かう際に付き添いで同行し、関川とともに柔道での実績を買われて浜田も入団することとなる。
1972年3月6日大田区体育館での新日本プロレス団体旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登道春が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んで試合を行ったため、その煽りを受けて浜田が試合カードから外され〔『週刊プロレス』No.1674 70頁 流智美のあの日、あの時〈62〉参照〕、改めて3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行った。「リトル浜田」のリングネームで主に前座で試合を行っていたが、軽快な動きで大きな選手を手玉に取り、前座戦線の台風の目ともいわれた(190cm以上のキラー・カーンにも勝っている)。若手時代のちゃんこ番の際にカツ丼ラーメンなど出前をとった。
1975年メキシコへのプロレス修行に出る。メキシコではリングネームを現在の「グラン浜田」に変更した。メキシコでは、LLIを中心に活動し、1976年にはLLI参戦の最優秀外国人にも選ばれている。メキシコでのプロレス修行は1979年まで行い、同年2月に凱旋帰国を果たした。この時期既にメキシコに家族を持っていた浜田は、1995年まで日本とメキシコを往復する生活となる。メキシコに行った当時はスペイン語が喋れない、水質が悪い等、日常生活でも苦労したが、努力によりトップに立ち、4階級制覇という偉業を達成した。この浜田の活躍により日本とメキシコのルートができ、日本にルチャリブレが輸入され、現在に至る。
1984年4月に第一次UWFに参加。同年8月には全日本プロレスに移籍。1986年ジャパン女子プロレスコーチに就任とともに、一時現役を引退する。1988年に、同じく引退してコーチに就任していた大仁田厚との遺恨が発生。その際に、女子プロレスのリングながら試合を行い、現役に復帰する。
1990年3月にユニバーサル・プロレスリングの旗揚げに参加。1992年11月27日ザ・グレート・サスケみちのくプロレスを旗揚げした際に、浜田のみがユニバーサル・プロレスリングに残った。所属選手の大半がいなくなったユニバーサル・プロレスリングはその後FULLと改名したが自然消滅。浜田自身も1994年8月から古巣の新日本プロレスに登場するようになる。ここまでの新日本→UWF→全日本→ジャパン女子→ユニバーサル、という団体移籍の動きは、柔道経験者として似た経歴を持っていることから若手時代に目をかけてくれて、メキシコへの道を開いてくれた新間寿に対する義理を優先したものとされ、浜田自身、プロレス雑誌等でそのことを公言していた。
1996年にみちのくプロレスに入団。みちのくプロレス所属中の1999年には、当時既にプロレスラーになっていた娘の浜田文子と親子タッグでの試合が実現している。また2000年11月25日には、娘の浜田文子と組んで、娘のソチ浜田&ソチの旦那のペンタゴン組とのタッグ戦も実現している。
2001年にフリーとなり、再度新日本プロレスに登場。また大阪プロレスなど多くの団体にも出場するようになり、全日本プロレスではラブマシンズの一員として「リトル・ラブ・マシン」のリングネームで活動した。
2006年娘の浜田文子が「ドクロンZ」として参戦しているハッスルに「ドクロンZパパ」というリングネームで登場した。入場曲とコスチュームは天才バカボン
2007年には久々にメキシコマットに登場、ペンタゴンとの遺恨を復活させた。同時に文子とのタッグも結成。
日本では、藤波との交流から、無我〜ドラディションにほぼレギュラーメンバーとして参戦している(所属選手と共にチケットに並んで似顔絵が描かれているほど)他、2008年にはアイスリボンにも不定期参戦。
2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場した。鶴見五郎とタッグを組み、大仁田厚、栗栖正伸ペアに勝利した。
2009年4月15日、大阪で新団体「MWF」を旗揚げ。
2011年11月27日、DDT後楽園大会「God Bless DDT 2011」に突然登場、大石真翔男色ディーノらのユニット・ホモいろクローバーZへの加入(緑)が決定した。
2013年8月9日、新宿FACEで開催された浜田文子15周年記念大会「〜Aventurera」に出場。セミファイナルで華名とシングルマッチを行い、勝利。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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