翻訳と辞書
Words near each other
・ ギトラン
・ ギトラン (ツィムシアン族)
・ ギトリス
・ ギトルニー駅
・ ギドラン
・ ギドロプロエクト
・ ギドン・クレーメル
・ ギド・アルバレンガ
・ ギド・ビルギリオ・アルバレンガ
・ ギド・フルスト
ギド・ブッフバルト
・ ギド・ボンテンピ
・ ギド・マック
・ ギド・ミシュラン
・ ギド・メッシーナ
・ ギド・ヴァン・デル・ガルデ
・ ギド・ヴェスターヴェレ
・ ギドー・ダレッツオ
・ ギナンジャール・カルタサスミタ
・ ギナ・ファルケンベルク


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ギド・ブッフバルト : ウィキペディア日本語版
ギド・ブッフバルト

ギド・ウルリッヒ・ブッフバルト(''Guido Ulrich Buchwald''、1961年1月24日- )は、ドイツベルリン出身のサッカー指導者、元サッカー選手
ドイツ代表ディフェンダー2004年から2006年にはJリーグ浦和レッドダイヤモンズ監督を務めた。
== 略歴 ==
1978年シュトゥットガルト・キッカーズに入団、旧西ドイツ代表ユースに選出。1983-1984シーズンにドイツ・ブンデスリーガVfBシュトゥットガルトでデビュー。このシーズン、34試合に出場してリーグ優勝に貢献し、1993-1994シーズンまで同クラブに在籍。
西ドイツ代表デビューは1984年5月22日。代表通算76試合に出場、4得点。ちなみに、キッカーズ時代のポジションはFWであった。このためか、後の浦和時代にも、機を見ては前線へ上がりシュートを放つシーンが何度も見られた。
大柄な選手の多いドイツ代表においてもひときわ屈強な選手で、クラブ・代表ではディフェンダーとして活躍した。1986年FIFAワールドカップ・メキシコ大会では直前で代表から外され悔しい思いをしたが、1990年イタリア大会の決勝戦ではアルゼンチンディエゴ・マラドーナを完封。西ドイツの3度目の優勝に貢献した。この時のチームメイトでシュトゥットガルトでも同僚だったユルゲン・クリンスマン(前ドイツ代表監督)とは、無二の親友である〔2006年12月に浦和レッズの監督退任を発表する記者会見を行った際、退任後にまず何をするかと聞かれて「ユルゲン・クリンスマンを訪ねる」と答えている。〕。
1994年FIFAワールドカップアメリカ大会を最後にドイツ代表を引退し、来日。Jリーグ・浦和レッズ1994年から1997年の3年半の間プレーした。浦和ではディフェンスの要として活躍。「ゲルマン魂」をそのまま体現する闘志むき出しのプレイスタイルはチームに大きな刺激を与え、それまで弱小クラブだった浦和を底上げし、サポーターから敬愛された。1995年1996年には2年連続でJリーグベストイレブンに選出されている。1997年10月15日、浦和駒場スタジアムで行われた退団セレモニーでは、白馬に乗って場内を回った。
1997年-1998年シーズンのブンデスリーガ・カールスルーエSCを最後に現役を引退。引退後はシュトゥットガルト・キッカーズのスタッフとなる。
日本を「第二の故郷」と呼ぶブッフバルトは、選手・監督として浦和レッズの歴史に偉大な足跡を残した。2002年から浦和レッズのテクニカル・アドバイザー、そして2004年から監督に就任。第2ステージでは監督就任1年目にして、チームを初のステージ優勝に導いた。2005年のシーズンでは苦しいチーム状況の中リーグ戦では2位、そして第85回天皇杯優勝という成果を残した。
2006年、リーグチャンピオンの座を賭けた最終戦(34節)はホーム埼玉スタジアム2002で2位ガンバ大阪を迎え撃つ形となり、その直接対決で浦和レッズが3-2で勝利を収め、悲願のリーグ制覇を決めた。(浦和レッズが自身初めての監督経験であったがヘッドコーチエンゲルスとの二人三脚での指揮が3年目にして実を結んだものと言える。)しかしながら、家庭の事情を理由にこの年限りで浦和監督を退任すると発表(なおこの優勝はJリーガー出身の監督としても初のリーグ優勝であった)。2007年1月1日の天皇杯連覇を置き土産にし、ドイツへ帰国した。
2007年6月、ブンデスリーガ2部のアレマニア・アーヘンの監督に就任。契約期間は2年だったが、成績は中位に甘んじ、経営陣から采配への不満の声やチームを統率できていないとの批判の声があがり、その年の11月、わずか半年も経たずに解任された。
退団後の2008年は浦和レッズとの交流を続け、再び2009年度からのテクニカル・アドバイザー就任も内定していたが、クラブがフィンケ新監督招聘を彼に相談なく決めたことや、複数年契約中だったエンゲルス前監督を社長の独断で更迭したことに対してブッフバルトが激怒。結果、浦和レッズとは喧嘩別れする形となった〔◆ブッフバルト氏とのアドバイザー契約にも失敗… (2008年12月8日付スポーツ報知、同日閲覧)〕
“反フィンケ”ギドはアドバイザー拒否 (2008年12月8日付スポーツニッポン)〕。
本人は日本のマスコミに対して「Jクラブから監督就任の話があったが浦和との義理から断った。だが今後は分からない」との恨み節も残している〔ブッフバルト氏、浦和に激怒!「フィンケ監督適任でない」 (2008年12月6日付スポーツ報知)〕。
一時はかつて所属していた浦和とは疎遠になってしまい、日本サッカー協会とアドバイザー契約を交わし、2011 FIFA女子ワールドカップに出場するサッカー日本女子代表のキャンプ地選定に関わったり、安藤梢の女子ブンデス・リーガ移籍の橋渡し役を務めるなど、日本サッカー界に貢献する働きが主になっていた。しかし近年では2012年7月15日に浦和駒場スタジアムのリニューアルイベントで行われた試合に浦和OBチームのメンバーとして参加〔【浦和】ブッフバルト氏が駒場に登場 (日刊スポーツ 2012年7月15日)〕、2014年には元同僚山田暢久の引退試合にレッズ歴代選抜チームの監督して参加、またレッズのアジアチャンピオンズリーグの試合を観戦しに来日するなど再び親交を深めている模様である。
ブンデスリーガ、試合の分析、解説など生放送にてゲスト出演。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ギド・ブッフバルト」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.