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カーナヴォン伯ジョージ・ハーバート : ミニ英和和英辞書
カーナヴォン伯ジョージ・ハーバート[かー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 

カーナヴォン伯ジョージ・ハーバート ( リダイレクト:ジョージ・ハーバート (第5代カーナヴォン伯) ) : ウィキペディア日本語版
ジョージ・ハーバート (第5代カーナヴォン伯)[はく]

第5代カーナーヴォン伯爵、ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバートGeorge Edward Stanhope Molyneux Herbert, 5th Earl of Carnarvon, 1866年6月26日 - 1923年4月5日)は、イギリスの貴族、考古学者、政治家。
古代エジプトファラオツタンカーメンの王墓発掘の資金提供者として知られる。日本ではカーナヴォン卿(敬称である Lord Carnarvon の翻訳)の名で紹介され、広く知られている。
1890年まではポーチェスター卿(Lord Porchester)の儀礼称号を使用した。
== 生涯 ==
1866年7月26日に第4代カーナーヴォン伯爵ヘンリー・ハーバートの長男として一族の居城であるハンプシャー州ので生まれた。生誕時よりカーナーヴォン伯爵家の嫡男の儀礼称号ポーチェスター卿の儀礼称号を持っていた〔カーター(2001) p.44-46〕。
1875年に母エヴェリンが死去し、父方の叔母が母親代わりを務めた〔カーター(2001) p.48〕。イートン校を経て、1885年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した〔カーター(2001) p.55〕。
学生時代に父カーナーヴォン卿がイタリアポルトフィーノに別荘を買ったため、ポーチェスター卿もそこでヨットを購入した。1887年に大学を卒業するとヨットで世界巡航を行った。この海上で過ごした数カ月の間に暇な時に本を読む習慣が付き、とりわけ歴史に興味を持つようになったという〔カーター(2001) p.57-58〕。ヨット世界巡航が終わった後も世界各地を旅行し、南アフリカオーストラリア日本などを訪問した〔カーター(2001) p.62〕。
そんな中の1890年に父が死去し、23歳にして第5代カーナーヴォン伯爵位を継承し〔カーター(2001) p.62〕、貴族院議員に列した〔。
爵位を継いだ後も世界各地の旅行を続け、フランスやトルコ、イタリア、ドイツ、アメリカ、南米などを歴訪した〔カーター(2001) p.62-67〕。
1895年にはアルフレッド・ド・ロスチャイルドの娘といわれ、アルフレッドから巨額の金銭支援を受けているアルミナ・ウォムウェルと結婚した。以降カーナーヴォン卿も金回りがよくなった〔横山(1995) p.40-41〕。
資産家として突出していたカーナヴォン卿は、初めは競走馬の所有者として有名であった。1902年にはサラブレッド繁殖場であるハイクレア・スタッドを創設した。また、カーナヴォン伯家とバークシャー州ニューバリー競馬場(w:Newbury Racecourse 、大英G1レースの1つロッキンジステークスの会場にもなっている)の関係は、1905年に彼が新しい役員の一人に任命されて以来絶え間なく続いている。ちなみに、彼の孫にあたる第7代カーナヴォン伯ヘンリー・ハーバートは、1969年から亡くなるまでエリザベス2世レーシングマネージャー(所有競走馬の出走予定や搭乗騎手の手配などを総合的に管理する役職)を務めており、女王の最も親しい友人の一人であった。
また卿は自動車の黎明期において、向こう見ずな自動車乗りとしても有名だった。卿自身は慎重な「自動車運転者」だと思っていたようだが、当時の『Autocar』誌には、彼の車が時速20マイル(約32キロ)以上の「光のごとき」スピードで、道行く人々や自転車を追い越していく様子が伝えられている。しかし、1901年ドイツで重度の障害を残すほどの深刻な自動車事故に遭ってしまった。1903年に初めてエジプトを訪れたのも、事故以来徐々に弱っていく身体が、冬場の英国の湿潤な気候と厳しい冷気に耐えられないためであった。
そして卿は熱狂的なアマチュアのエジプト考古学者であった。エジブト考古学に手をつけたのは、そもそもカイロでの冬季静養の退屈を紛らわせるためであった。カイロ入りから程無くして、エジプト総領事である初代クローマー伯イーヴリン・ベアリングの要請に基づき、シェイフ・アブデル=クルナ(w:Sheikh Abd el-Qurna)での発掘調査のために一路ルクソールへ向かう(この時、発掘現場を見下ろせるように確保した逗留先が、以降定宿となるウィンターパレスホテル(w:Winter Palace Hotel, Luxor)である)。結局この発掘は棺に納められた猫のミイラを1体掘り出したのみに終わったが、卿はこの経験から正しい知識と技術を持つ専門家の必要性を痛感した。そこでクローマー卿に相談を持ちかけ、紹介されたのが当時若手の考古学者ハワード・カーターであった。
1907年からカーターによる発掘調査の経済的・政治的スポンサーになった。ルクソール西岸(テーベ)や東岸、テル・エル=バラムン(Tell el-Balamun)のデルタ地帯での発掘で数々の実績を重ねてきた。王家の谷では1915年から発掘を開始し、第一次世界大戦による中断を挟みつつ、1917年からツタンカーメン王の墳墓に的を絞って発掘を再開した。しかし、王家の谷は既に盗掘され尽くしていると信じられていたこともあり、この時には多くの融資家が痺れを切らして援助を打ち切っていた。そのため、最後の2年間の資金はカーナヴォン伯爵家の財産から取り崩していた。
ある日とうとう、卿はカーターをハイクレア城に召喚し、発掘計画の中止を告げた。しかし逆にカーターは、成功した暁には発掘者の名誉を(発掘許可を得た者の当然の権利として)全てカーナヴォン卿に帰すことと引き換えに、卿の個人資金を元手に1シーズンのみの後援延長を提案し、果たして卿はこの案を飲んだ。そしてついに1922年11月初め、カーターは石段とその先に蓋をされ封印された入口を発見した。同月末、報せを受けた卿は娘のイーヴリン(Evelyn Herbert)を伴ってエジプト入りし、カーターと共にツタンカーメン王の墳墓を開き、考古学史上無比の財宝を白日の下にさらした。
それから約5ヶ月後、カーナヴォン卿がカイロのコンティネンタルサヴォイホテル(Continental Savoy Hotel)で死亡しているのが発見された。この不可解な急死は、『ツタンカーメン王の呪い』、『ミイラの呪い』という脚色がつけられてまるで真実のように巷にたちまち広がった。いわく、『卿が運ばれたカイロの病院で午前1時55分、光が現れ暗闇の中の人々に飛び込んだ。すぐに、同時刻の自宅では、卿の飼い犬が大きな遠吠えをあげて死んだ。卿が遺体で発見されたホテルの部屋は、以来誰も使用していない』等々。
実は死の約1ヵ月前の1923年2月末、卿はアスワンで数日間の静養を取っている。その際にに刺された頬の腫れ痕を、後日のひげ剃りの時にうっかり傷つけてしまった。傷跡は処置したものの直後に発熱、2日後には回復したが間も無く再発した。治療の為にコンティネンタルサヴォイホテルに搬送されたが、その甲斐むなしく家族や友人の見守る中、4月5日の朝に息を引き取った。以上より、虫さされにより丹毒を患い、出血の際に菌血症になった結果肺炎を惹き起した、というのが自動車事故以来、虚弱体質となっていたカーナヴォン卿の死因に関する有力な説である。そもそも、彼の仲間で雇い人のカーターは、若いファラオの墓を暴いた中心人物であったが、その後も平穏に16年の歳月を生きている。
カーナヴォン卿の墓は、一族の座所を一望できるハンプシャー州バークレア(w:Burghclere)村郊外のビーコンヒル(Beacon Hill)にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョージ・ハーバート (第5代カーナヴォン伯)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 George Herbert, 5th Earl of Carnarvon 」があります。




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