翻訳と辞書
Words near each other
・ カロン (ねごとの曲)
・ カロン (ゲームキャラクター)
・ カロン (化学)
・ カロン (衛星)
・ カロンFC
・ カロンガ
・ カロンノ・ペルトゥゼッラ
・ カロンノ・ヴァレジーノ
・ カロン・ティパ
・ カロン・トリパ
カロン・ド・ボーマルシェ
・ カロン・バトラー
・ カロン・ラット
・ カロヴィッリ
・ カロヴィーニョ
・ カロヴェート
・ カロ・アラビヤン
・ カロ・カン・ディフェンス
・ カロ・カン防御
・ カロ・パリシアン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

カロン・ド・ボーマルシェ : ミニ英和和英辞書
カロン・ド・ボーマルシェ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

カロン・ド・ボーマルシェ : ウィキペディア日本語版
カロン・ド・ボーマルシェ[ちょうおん]

ボーマルシェ(Beaumarchais)こと本名ピエール=オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron, 1732年1月24日 - 1799年5月18日)は、18世紀フランス実業家劇作家
現在は『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『』からなる「フィガロ3部作」で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、フランス文学者進藤誠一はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評している。
== 生涯 ==

=== 少年期 ===
1732年1月24日、パリのサン=ドニ街にて、アンドレ=シャルル・カロンとマリー=ルイーズの間に、ピエール=オーギュスタン・カロンは生まれた。ピエールは10人兄妹の7番目であるが、そのうち4人は夭折しており、無事に育った男児は彼のみであった。父親のアンドレは先祖代々プロテスタントであったが、結婚前年の1697年にカトリック改宗している。若い頃は騎兵でもあったが、ピエールが生まれたころには時計職人として生計を立てていた。単なる平民に過ぎなかったが、文学を愛好し、この時代の平民としてはかなり正確なフランス語運用能力があったことが遺されている手紙からうかがえる。母親であるマリー=ルイーズに関しては、ほとんどわからない。パリの町民階級出身であることが分かっているのみであるから、彼らは身分の釣り合った普通の夫婦であったといえるだろう。この家族について特筆すべきなのは、ピエールを取り巻く5人の姉妹たちである。長姉マリー=ジョセフ、次姉マリー=ルイーズ、三姉マドレーヌ=フランソワーズ、それに2人の妹、マリー=ジュリーと、ジャンヌ=マルグリートである。とくに妹たちは、ピエールと芸術の趣味が合ったらしく、ともに音楽を奏でて楽しんだという。この時に培われた音楽的素養は、彼が成人してからフランス社会で一歩ずつ社会的地位を高めていくのに、大きな役割を果たしたのであった。
家族の暖かな愛情に包まれて育ったピエールは、3年間の普通教育(おそらく獣医学校か)を修了したのち、13歳で時計職人である父の跡を継ぐべく工房に入って修業を始めた。ところが遊びたい盛りのピエールにとって、信心の篤い父親のもとでの修業は息苦しいものであったらしい。18歳のころ、放蕩の限りを尽くした挙句、工房の商品である時計を無断で持ち出して売却するという事案を起こし、父親の激しい怒りを買って勘当されてしまった。幸い父親の友人や母親のとりなしがあり、数か月後には父親の赦しを得たが、その代わりとして父親の出した厳しい条件を呑まねばならなかった。この条件によって以前のように遊べなくなったピエールは、真面目に時計職人として邁進するのであった。
こうした真面目な修業が実を結んで、1753年、21歳の時に時計の速度調節装置の開発に成功した。ピエールがこの装置を開発するまでは時刻を正確に刻む技術は発見されておらず、各々の時計が指し示す時刻がばらばらであったから、この発明は画期的であった。若くして素晴らしい発明を成し遂げたことを知らせようと、同年7月23日、父親の友人であった王室御用時計職人ルポートにこの装置を見せたという。
ところが、ルポートはこの装置を自らの発明と偽ってメルキュール・ド・フランス誌に発表してしまった。ルポートは、王室御用時計職人という肩書からもわかるように、当代随一の時計職人であり、様々な宮殿で使用されている時計の制作者であった。まさに時計業界の重鎮であったわけで、それほどの権威を持つ自分に無名の職人が歯向かってくるはずもないと考えてのことであったのかもしれない。ピエールはメルキュール誌に載った記事を直接見なかったようだが、幸いなことに彼が装置の開発に取り組んでいたことを知っていた人物(同業の時計職人と思われる)が知らせてくれたおかげで、ルポートの裏切りを知るところとなった。この人物への返信が遺されているが、そこには、相手がたとえ業界の重鎮であろうと怖気づかず、自身の発明に確固たる自信を持ち、権威である科学アカデミーに裁定を委ねようとする冷静沈着な態度が現れている。この内容通りに、ピエールは科学アカデミーに自身の発明した装置の下絵を提出して裁定を願い出るとともに、メルキュール誌にも抗議文を送付して掲載させた。この抗議文が掲載されるとルポートもさすがに焦ったようで、自身の業績や抱える顧客を例に挙げて社会的な信用の高さを示そうとしたが、このような卑劣な行為にピエールはますます激昂し、自身の正しさを証明しようと躍起になった。1754年2月23日、この一件に科学アカデミーからの裁定が下った。ピエール=オーギュスタン・カロンの主張を全面的に支持し、ルポートは単なる模倣者に過ぎないことを認める内容であった。
ピエールは、この一件で世に広く知られるようになった。国王ルイ15世への謁見を許され、高貴な人々からたくさんの注文を受けたことで、ルポートを追い落として正式に王室御用の時計職人となったのである。国王の注文に応じて製作した極薄の時計や、王姫のために制作した両面に文字盤のある時計も評判をとったが、何より宮中で話題となったのは国王の寵姫ポンパドゥール夫人のための指輪時計であった。この時計は直径1センチにも満たない極小の時計であったために龍頭を削ぎ落とさねばならなかった。まるで時計として使えないのではないか、と不審がる国王に向かって、若き時計職人は文字盤を取り囲んでいる枠を回転させれば、時計として機能を果たすことを示した。その卓越した技術に、宮中は大いに唸ったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カロン・ド・ボーマルシェ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.