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オプリーチニナ : ミニ英和和英辞書
オプリーチニナ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

オプリーチニナ : ウィキペディア日本語版
オプリーチニナ[ちょうおん]

オプリーチニナオプリチニナアプリーチュニナ ローマ字表記:Oprichnina)は、ロシアモスクワ国家の皇帝(ツァーリイヴァン4世が創設した制度
1565年、イヴァン4世は国土をツァーリの私的な領地(オプリーチニナ)と公的な国土(ゼムシチナ、オプリーチニナ以外の貴族領)の二つに分割し、私的な領地オプリーチニナにおいて独裁権力を行使して従来の有力者である貴族らを弾圧した。
オプリーチニナとは「別個に設けられた財産」のことであり、イヴァン4世に忠実なエリート階級の親衛隊(オプリーチニキ)によって管理された。この財産にふくまれた地域の諸公・貴族らは処刑されたり、ゼムシチナに移住させられたりした。
== 発端 ==

1564年末から1565年2月にかけて、イヴァン4世は誰にも告げず、自分の全家族を連れてモスクワクレムリンを退去しアレクサンドロフへ移るという行動に出た。
退去から1ヶ月後にモスクワに送られた書簡から、ツァーリと大貴族の議会との対立が事件の背景としてあったと推測される。高僧・貴族・官署役人からなる代表団がイヴァンのもとに送られ、イヴァンは全国的請願を受理し帝位に復帰することに同意するが、その時ツァーリの出した条件として、裏切り者と不従順な者を処罰する「別個の宮廷」としてオプリーチニナの制定を提案した。
今日伝わらないオプリーチニナに関する勅令は貴族と高僧からなるモスクワ国家会議で読み上げられ、次の日にイヴァンは委任された全権能を利用して、裏切り者とされた貴族名門中の6名が斬首され、他の1名が投獄、串刺しの刑に処せられた。その日を皮切りにオプリーチニキは活発に反逆行為を摘発し、貴族層以外もふくめて、オプリーチニナによる犠牲者は400人以上とイヴァン時代の亡命貴族アンドレイ・クルプスキー公は算定し、は1万人以上とさえ見積もっている。ツァーリ・イヴァンによって修道院に送られた過去帳のあるものでは、処刑者は4000人に及んでいる。
だが、その過去帳には貴族の反逆にはまったく関わりない廷臣・書記補・猟犬係・修道士の名が挙げられ、イヴァンのお気に入りであったオプリーチニキ隊員ヴャゼムスキー公さえ滅ぼされた。1571年1月マリュータ・スクラートフノヴゴロドで数千人を虐殺すると、活動は下火となり、1572年にオプリーチニナは解散させられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オプリーチニナ」の詳細全文を読む




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