翻訳と辞書
Words near each other
・ エドワード・エルリック
・ エドワード・エンターテインメント・グループ
・ エドワード・エヴァレット
・ エドワード・エヴァン・エヴァンズ=プリチャード
・ エドワード・エヴェレット
・ エドワード・オウ
・ エドワード・オスカー・ウールリッチ
・ エドワード・オズボーン
・ エドワード・オズボーン・ウィルソン
・ エドワード・オッペンハイム
エドワード・オブ・ウェストミンスター
・ エドワード・オブ・ウッドストック
・ エドワード・オブ・ノリッジ
・ エドワード・オブ・ノリッチ
・ エドワード・オブ・ノーウィッチ
・ エドワード・オブ・ミドルハム
・ エドワード・オーウェン
・ エドワード・オーガスタス
・ エドワード・オーガスタス (ケント公)
・ エドワード・オーガスタス (ヨーク・オールバニ公)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

エドワード・オブ・ウェストミンスター : ミニ英和和英辞書
エドワード・オブ・ウェストミンスター[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エドワード・オブ・ウェストミンスター : ウィキペディア日本語版
エドワード・オブ・ウェストミンスター[ちょうおん]

エドワード・オブ・ウェストミンスター(Edward of Westminster, 1453年10月13日 - 1471年5月4日)は、イングランドヘンリー6世の王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)。史上唯一戦死したプリンス・オブ・ウェールズである。
== 生涯 ==
ヘンリー6世と王妃マーガレット・オブ・アンジューの息子としてウェストミンスター宮殿で生まれた。ただ当時ヘンリーは精神病に苦しんでいたため、王子の出生についてはマーガレットと愛人との情事の結果という噂が広まっていた。もっともこれには確たる証拠もないし、ヘンリー6世も自分が王子の父親であることを疑っていなかった。エドワードは1454年ウィンザー城でプリンス・オブ・ウェールズの位を授かった。
1460年にヘンリー6世がヨーク公リチャードの圧力に負けて、エドワードの生得権である王位継承権を手放してヨーク公を王位継承者に指名した時、マーガレット王妃はすぐに軍を出してヨーク派と戦おうと企てた。ランカスター派が壊滅してフランスに亡命するまで、マーガレットとエドワードはしばらくスコットランドウェールズを逃げ回っていた。マーガレットは1469年にヨーク派から離反したウォリック伯リチャード・ネヴィルと同盟を結び、エドワード王子は1470年12月にウォリック伯の末娘のアン・ネヴィルと結婚した(きちんとした結婚式を挙げたかどうかは疑わしい)。
ウォリック伯は一旦はヨーク派に奪われていた王位を取り戻し、ヘンリー6世を復位させることに成功した。しかし、マーガレットとエドワードがイングランドに戻ってきた時、ウォリック伯はバーネットの戦いで敗死して、ヨーク家のエドワード4世に王位を奪還されていた。そこで、経験不足のエドワード王子と母后マーガレットは、一縷の望みを託してテュークスベリーの戦いで残存兵の指揮を執った。だが、結局はランカスター派の敗北に終わった。
言い伝えによれば、エドワードはグロスター公リチャードに捕虜にされて、エドワード4世の前に連れて来られた。そこでエドワードがヨーク派の王エドワード4世を侮辱したため、王はエドワードを即刻処刑するよう命じたという。彼はテュークスベリー修道院に埋葬される。
エドワードの未亡人アン・ネヴィルは、翌1472年にグロスター公リチャード(1483年に即位してリチャード3世) と再婚した。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドワード・オブ・ウェストミンスター」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.