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ウォーリー・シラー : ミニ英和和英辞書
ウォーリー・シラー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウォーリー・シラー ( リダイレクト:ウォルター・シラー ) : ウィキペディア日本語版
ウォルター・シラー[ちょうおん]

ウォルター・マーティ・「ウォリー」・シラー・ジュニアWalter Marty Schirra, Jr. 1923年3月12日 - 2007年5月3日)は、アメリカ宇宙飛行士海軍軍人。アメリカ最初の有人宇宙飛行計画であるマーキュリー計画で選ばれた7人の宇宙飛行士中の一人。マーキュリー計画、ジェミニ計画アポロ計画のすべてで、地球周回軌道以上の宇宙飛行を体験した飛行士はシラーただ一人である。宇宙に滞在した総時間は295時間15分になる。
アメリカの有人宇宙飛行で3つの異なるプロジェクトでそれぞれ地球周回軌道以上の宇宙飛行を体験した飛行士は、シラーとジョン・ヤング(ジェミニ計画・アポロ計画・スペースシャトル)の2人だけである。
アメリカ海軍の補給艦ウォリー・シラーは、シラーの功績をたたえて死後に命名された。

==生い立ちおよび経歴==
シラーはニュージャージー州ハッケンサックに生まれた。シラーの父親のウォルター・M・シラー・シニアは第一次世界大戦の間にスイスからカナダに移り住み、飛行士としての経歴を積んだ。後には小型飛行機の曲芸飛行を行うようになる。母親のフローレンス・リーチ・シラーは夫と共に田舎の航空ショーで曲芸飛行を行い、飛行機の翼上を歩いたり、見学者に遊覧飛行をさせて生計を立てていた。シラーは15歳で父親の飛行機を操縦するようになる。
シラーはボーイスカウトに加わり、ニュージャージー州オラデルの第36分団のファースト・クラスとなる。イングルウッドのドワイト・モロー高校を卒業し、1941年にニュージャージー工科大学に入学し、1944年に卒業した。その後海軍兵学校に入学、1945年に卒業し、アラスカ (''USS Alaska, CB-1'') の士官として任官したが、太平洋戦線に向かって出発した翌日太平洋戦争は終結した。
戦後彼はでパイロットの訓練を受け、空母の戦闘機航空団に配属される。
朝鮮戦争が勃発すると、シラーは海軍から空軍に貸与されたパイロットの一名として韓国に急派された。最初は第136爆撃航空団の飛行隊長として、続いて第154戦闘爆撃飛行隊の作戦士官として勤務した。1951年から52年にかけて90回の作戦飛行任務に出撃し、その大半はF-84によるものであった。シラーはMiG-15を1機撃墜し、他の2機に損傷を与えている。朝鮮戦争での功績で空軍殊勲十字章と柏葉付き航空メダルと受章した。
朝鮮戦争が終わるとシラーは海軍のテストパイロットの任に就く。チャイナレイク海軍兵器ステーションにおいてシラーはF7U カットラスに搭載したサイドワインダーミサイルの試験を担当した。飛行教官および空母艦載機パイロットの職を務めた後、再びテストパイロットに戻り、F-4 ファントムの海軍での評価試験を行った。
引退後は自身の宇宙飛行の回想録などを共同執筆した。
2007年中皮腫による心臓発作で死去した。戦没者が埋葬されているサンディエゴのフォート・ローズクランス国立墓地に埋葬されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウォルター・シラー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Wally Schirra 」があります。




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