翻訳と辞書
Words near each other
・ ウィリアム・イムブリー
・ ウィリアム・インブリー
・ ウィリアム・イートン・チャンドラー
・ ウィリアム・ウィカム
・ ウィリアム・ウィザリング
・ ウィリアム・ウィッカム
・ ウィリアム・ウィテーカー
・ ウィリアム・ウィムザット
・ ウィリアム・ウィリアムス (独立宣言署名者)
・ ウィリアム・ウィリアムズ
ウィリアム・ウィリス
・ ウィリアム・ウィルキンス
・ ウィリアム・ウィルキンス (陸軍長官)
・ ウィリアム・ウィルキンズ
・ ウィリアム・ウィルスン
・ ウィリアム・ウィルソン
・ ウィリアム・ウィルソン・サンダース
・ ウィリアム・ウィルソン・モーガン
・ ウィリアム・ウィルドマン・キャンベル
・ ウィリアム・ウィルバーフォース


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ウィリアム・ウィリス : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・ウィリス
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ウィリアム・ウィリス : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・ウィリス

ウィリアム・ウィリスWilliam Willis, 1837年 - 1894年)は、幕末から明治維新にかけて日本での医療活動に従事したイギリス人医師(医学博士)、お雇い外国人
==生涯==
1837年にアイルランドで生まれ、スコットランドエディンバラ大学で医学を学んだ。1861年、箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され〔日本勤務を希望した理由として、ウィリスは家族への手紙に「年俸500ポンドという英国ではとても期待できない収入」が得られるためと記している〕、江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇し、生麦事件の現場を目撃した。ハリー・パークスの下で医官として働いた。
1863年薩英戦争ではイギリス人負傷者の治療にあたった。
1864年、元公使館医官ジェンキンズと横浜で最初の薬局を開業した。四国艦隊下関砲撃事件に際し下関遠征に参加することが許されなかったことに不満を持ち、医官を辞職して開業医となるか迷うが十分な収入が見込めないので思いとどまった。
1865年、この頃、長男ジョージ(日本名うたろう?)が生まれた。〔母親はウィリスの遺言書に記されていた「ちの」という女性か?〕
1866年、医官を務めるかたわら首席補佐官兼会計官に昇進。公使パークスの鹿児島・下関・宇和島訪問に同行、生麦事件をおこした島津久光に会い、強い反感をもった。横浜で大火に遭遇。
1867年パークス夫妻とともに富士山に登った。兵庫開港準備に伴う人事で江戸副領事・横浜副領事に昇進した。
1868年、兵庫領事マイバーグ急死のために大坂副領事代理を兼任した。鳥羽・伏見の戦いの勃発、幕府軍の敗北、慶喜の大坂城脱出を知った。幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。戦病傷者治療という名目でサトウとともに大坂・京都に行き〔大山巌の依頼で前線近くの相国寺養源院に野戦病院を置き薩摩藩兵(西郷従道など)の治療にもあたった。〕、ミットフォードとともに前土佐藩主山内容堂を診察し堺事件に関する謝罪を各国公使に伝達することを依頼された。パークス襲撃事件の負傷者を治療した。江戸に戻った後に横浜で彰義隊討伐作戦の負傷兵などを治療した。北越戦争での戦傷者の治療にあたるため越後路を旅行した。〔高崎・軽井沢・上田・善光寺を経由して高田・柏崎・新潟・新発田で治療に従事、落城直後の会津若松の様子も目撃した。〕江戸(東京)副領事に復帰。
1869年、新政府の要請でイギリス外務省員の身分をもったまま東京医学校の教授に就任、大病院の指導にあたった。
1870年、新政府がドイツ医学採用の方針をとったため自発的に東京医学校教授を退職した。〔明治政府が正式にドイツ人医師の派遣を要請したのはウィリスの退職後であるが、新政府の医学取調掛に任命された相良知安・岩佐純が大学に基礎を置き研究活動を重視するドイツ医学の採用を主張していた〕イギリス外務省員を辞職し、西郷隆盛や医師石神良策の招きにより鹿児島医学校長、附属病院長に就任した。森有礼の提言で英語の発音指導にもあたった。
1871年、イギリス公使館書記官アダムズの訪問をうけた。〔アダムズは公式の覚書「ウィリス博士の鹿児島病院」のなかで、ウィリスが患者の治療だけではなく食生活の改善・公衆衛生・予防医学・教育などの分野で多くの業績をあげていることを報告している。〕廃藩置県前後の薩摩の情勢について代理公使アダムズに書簡を送って報告した。この頃、日本人女性八重〔鹿児島県士族江夏(こうか)十郎の娘である。〕と結婚した。〔1873年、次男アルバートが生まれ、異母兄のジョージとともに養育されたと思われる。〕
1877年西南戦争勃発を機に東京に戻るまで鹿児島への医学の普及に貢献した。この時ウィリスの下で学んだ中に高木兼寛がいる〔後に海軍軍医となった高木は「根拠に基づく医療」を特性とするイギリス医学に依拠して、当時流行していた脚気が栄養の不足に基づくものと考え、兵食改革をすすめ、海軍における脚気の発生率を劇的に低下させた。他方、研究を重視するドイツ医学の流れをくむ陸軍では高木の考えは否定され、結果として日清戦争日露戦争では多くの脚気患者を出してしまった。〕。
1881年イングランドに戻り、親友のアーネスト・サトウと同時期にシャムバンコクのイギリス公使館で働いた後、1892年に帰国した。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウィリアム・ウィリス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.