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イートン・ファニング : ミニ英和和英辞書
イートン・ファニング[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イートン・ファニング : ウィキペディア日本語版
イートン・ファニング[ちょうおん]

ジョセフ・イートン・ファニングJoseph Eaton Faning 1850年5月20日 - 1927年10月28日)は、イングランド作曲家、教育者。イートン・ファニングEaton Faning)として知られている。彼は音楽教師の息子として生まれ、12歳で教会のオルガニストになった。王立音楽アカデミーに在学中は、アーサー・サリヴァンらから教えを受けた。優秀な学生であったファニングは、多くの賞を受賞した。1874年にはアカデミーの教員となり、その後ギルドホール音楽演劇学校王立音楽大学ハーロー校でも教鞭を執った。
作曲家としてのファニングの作品は、オペレッタや1幕のサヴォイ・オペラから、ミサ曲マニフィカトといった教会音楽に及ぶ。また、彼は交響曲などの管弦楽曲も作曲しているが、よく知られるのは歌曲によってであり、中でもパートソングの「''The Vikings''」が最も有名である。
== 生涯 ==

=== 少年期 ===

ファニングはコーンウォール州、で、音楽教師をしていたロージャー・ファニング(Roger-)の息子として生まれた〔''The Times'', obituary, 31 October 1927, p. 16〕。ファニングに最初に音楽教育を施した(ピアノとヴァイオリンであった)のは、彼の両親であった。5歳で出演した地方の行事が初めての公開演奏となり、そこで小さなフィドルで独奏を披露した。彼が9歳の時に父がこの世を去り、一家はサフォーク州イプスウィッチへと移り住んだ。ファニングはその町の教会の聖歌隊でアルトを歌い、地元の講師にオルガンとヴァイオリンを学んだ〔"Eaton Faning" . ''The Musical Times'', August 1901, pp. 513–26, accessed 23 June 2010 (requires subscription)〕。12歳になると、彼はのオール・セインツ教会のオルガニストになった。この村はサフォーク州内、イプスウィッチの南端から約8.3キロメートルの地点に位置しており、彼は荷車に乗れなかった場合は歩いて行かねばならなかった。その後、彼はイプスウィチのセント・マリルタワー(St. Mary-le-Tower)のオルガニストだったリンドレー・ナン(Lindley Nunn)の下で学び、ナンはファニングを自分の代役に任命した。この役職は若い音楽家にとっては、最大級の実践的価値を持つものだった。ファニングは5年間にわたって毎日午後の礼拝で演奏し、60人のメンバーから成る聖歌隊の指導者代行も務めた〔。
1870年4月、彼の20歳の誕生日の直前、ファニングは学生として王立音楽アカデミーに入学した。彼は当時学長だったスタンデール・ベネットアーサー・サリヴァンに作曲を、他の教授陣に歌唱、ピアノ、チェロ、オルガンを師事した。彼は後になって、自分が音楽形式についてベネットから、管弦楽法についてサリヴァンから、いかに多くのことを学んだかを回想している〔。彼が最初にアカデミーの演奏会に出演したのは1870年10月のことであり、ピアニストとしてベートーヴェンの「月光ソナタ」を弾いた。1871年にはアカデミーの銅メダルを受賞し、翌年には銀メダルを受賞している。学生時代にはワーグナーが指揮する演奏会で合唱隊としてロイヤル・アルバート・ホールの舞台に立っており、またバイロイトドレスデンを訪れている〔。その後1884年には、ロイヤル・アルバート・ホールで催されたワーグナーの「パルジファル」の演奏会形式での公演で、出演したロイヤル・コーラル・ソサエティの稽古をつけた〔。
ファニングは学生時代に作曲を開始し、1871年には序曲と2つの弦楽四重奏曲を、1872年には交響曲を作曲した。1873年に彼はメンデルスゾーン奨学生として選ばれ、1876年にはマニフィカトへ曲をつけたことにより作曲のルーカス銀メダル(Lucas-)を獲得した。この作品を耳にしたジョン・ステイナーはこれを1878年の聖職者の息子たちの音楽祭での演奏曲目として推薦し、総譜がノヴェロ社(Novello & Co)から出版された〔。アカデミー在籍中、ファニングはパディントンのセント・トーマス教会とルイシャムのセント・ジョンズ教会のオルガニストの職を引き継いでいる。彼は2つのアマチュア音楽団体と、ブージー社主催のロンドン・バラード・コンサートで歌っていたプロの団体『イートン・ファニング氏選合唱団 "Mr. Eaton Faning's Select Choir"』で指揮をしていた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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