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イマニュエル・ウォーラステイン : ミニ英和和英辞書
イマニュエル・ウォーラステイン[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イマニュエル・ウォーラステイン ( リダイレクト:イマニュエル・ウォーラーステイン ) : ウィキペディア日本語版
イマニュエル・ウォーラーステイン[ちょうおん]

イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein、1930年9月28日 - )は、アメリカ社会学者
カール・マルクスがその政治経済学の根底にすえた唯物弁証法史的唯物論、国際政治経済学での従属理論、それに歴史学のアナール学派の代表的存在であるフェルナン・ブローデルの研究方法を踏まえて、ヨーロッパの大航海時代がもたらした世界的交易を起点に、世界は政治経済・社会的差異を包含して機能する一つのシステム化し、今日に至るも続くとする、世界を単一のシステムとする巨視的な観点による、政治経済学社会学を包括した世界システム論を提唱、確立した。
==略歴==
ニューヨークユダヤ人家庭に生まれる。ハイスクール時代は第二次世界大戦の最中であったが、常に家庭で世界情勢についての意見が交わされるような政治意識の高い一家であった。
1947年コロンビア大学に入学、1954年のコロンビア大学社会学部での修士論文〔Wallerstein,Immanuel(1954), ''McCarthism and theConservative,Master's Thesis'', Columbia University〕では、マッカーシズムが共産主義か反共産主義かの選択を迫るイデオロギー的外観を持ちながらも、実際の行動としては、中道から右よりの政治勢力における内部的な権力闘争のためのプログラムとして機能し、共産主義そのものにたいしては実のところ、関心がほとんど払われていないことが論じられており、イデオロギー的な二項対立状況の総体にたいする拒否とともに「実行可能性」をキーワードにして具体的な政治選択について分析をおこなう姿勢が示されている。この姿勢は、冷戦時代において何事も二項対立に還元しようと発想する冷戦思考を批判するものであり、のちに「反システム運動」の概念を生み出したように、ウォーラーステインの思想をつらぬくもののひとつであった。
1955年フォード財団アフリカ・フェローシップを得てアフリカに留学、ガーナコートジボワールにおける民族解放運動をテーマに博士論文〔「独立への道—ガーナとコートディヴォワール」(1959年提出、1964年公刊)〕を書き、アメリカのアフリカ研究において指導的立場に立つこととなった。1959年、コロンビア大学で学位を取得、1958年より母校で教職につき、1960年代はじめには、フランツ・ファノンの紹介者としても活動した。なお、公刊された初の単著は『アフリカ—独立の政治学』(1961年)であった。
1966年には編書『社会変動—コロニアル状況』を刊行したが、ここではまだ反植民地主義的な論文と近代化論的な論文が混在していた。1967年刊行の前掲『アフリカ—独立の政治学』では、はじめて「世界システム」の語が登場している。
ただし、山下範久によれば、この段階では「世界システム」の語は依然「冷戦構造」程度の意味合いしか持っていないという〔山下範久(2001年)〕。
1968年4月下旬の「コロンビア学園紛争」を契機に世界システムそのものを分析対象とするようになり、1971年、同大学を離れ、カナダのマギル大学社会学教授となり、1973年には43歳で米国アフリカ学会の会長職についた。コロンビア大を離れたあとのウォーラーステインはフェルナン・ブローデルに出会ってアナール学派の歴史学を学び、世界システム論の提唱者となって、1974年、資本主義経済を史的システムとする『近代世界システム』第1巻を発表した。
1976年、ニューヨーク州にあるビンガムトン大学に社会学の特待教授(-1999年)として迎えられ、世界システム論研究の中心となるフェルナン・ブローデル・センター〔Fernand Braudel Center 〕(正式名称は「経済・史的システム・文明研究のためのフェルナン・ブローデル・センター」)長に就任した(- 2005年)。1979年には、世界システムの視野にもとづいて現代世界の分析をおこなった諸論文を収載した初の論文集『資本主義世界経済』を、1980年には『近代世界システム』第2巻を刊行した。
ウォーラーステインは世界の大学で客員教授に任じられ、複数の名誉ある地位を得た。パリにあるフランス国立社会科学高等研究院アナール学派の拠点とされている。〕の客員研究主任〔通常の大学における客員教授に相当。〕を何度か務め、1994年から1998年の間は国際社会学会会長となった。1990年代には社会科学の再構築を目的とするガルベンキアン委員会〔Fernand Braudel Center - Gulbenkian Commission 〕の委員長となった。委員会の目的は向こう50年の社会科学研究の方向を定めるものであった。1999年、ウォーラーステインは教師としての引退を表明し、2000年にはエール大学社会学科の高級研究員となった。また、"Social Evolution & History Journal" 編集顧問委員会の一員でもある。2003年にはアメリカ社会学会の功労研究者表彰を受けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イマニュエル・ウォーラーステイン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Immanuel Wallerstein 」があります。




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