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イスラエルの失われた十氏族 : ミニ英和和英辞書
イスラエルの失われた十氏族[いすらえる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

イスラエル : [いすらえる]
 【名詞】 1. Israel 2. (n) Israel
: [とお]
  1. (num) 10 2. ten 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 
氏族 : [しぞく]
 【名詞】 1. clan 2. family 

イスラエルの失われた十氏族 ( リダイレクト:イスラエルの失われた10支族 ) : ウィキペディア日本語版
イスラエルの失われた10支族[いすらえるのうしなわれたじゅうしぞく]
イスラエルの失われた10支族(イスラエルのうしなわれたじゅうしぞく)とは、旧約聖書に記されたイスラエルの12部族のうち、行方が知られていない10部族を指す。日本語では「失われた10部族」ともいうがどちらが正しいということはない。ただし「失われた10氏族」という表記は誤りである〔聖書学では「支族」はあまり使われないが誤りではなく、一方「部族」と「氏族」は聖書学では区別された定訳であり、氏族は部族の中の小単位で、氏族が集まって部族を構成している。〕。
== 古代イスラエルの歴史 ==
聖書』によると、族長アブラハム紀元前17世紀?)がメソポタミアウルの地からカナンの地を目指して出発したことによりイスラエルの歴史がはじまる。孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。奴隷の時代が400年程続いた後にモーセ(モーゼ)が民族をエジプトから連れ出し紀元前13世紀?)、シナイ半島を40年間放浪し定住を始めた。200年程かけて一帯を征服して行く。
ダビデ王(紀元前1004年?‐紀元前965年?)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。しかし、ソロモン王(紀元前965年?‐紀元前930年?)の死後、南北に分裂し、サマリヤ首都に10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれた。北王国では首都サマリヤやその他の地に金の子牛の像をおいて祭祀の中心としていた〔これは子牛を崇拝したのではなくエロヒムの台座として置かれたものである。当時のイスラエル民族は、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった。学問的にはサマリアのエロヒム信仰もエルサレムのヤハウェ信仰も、ともに多神教の一種(拝一神教単一神教)だったと考えられている。〕。北王国は紀元前722年アッシリアにより滅ぼされ、10支族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された〔ただし、虜囚の拉致連行はかなりの長期間の間に数度にわたって領土を奪われる度に段階的に行われたため、最後の前722年の捕囚の段階では北王国は首都サマリアとその周辺をわずかにたもつだけの事実上の都市国家に転落していた。この時の虜囚はサルゴン碑文によると2万7290人であったが、これはこの滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1と推定されている。〕。この10支族の行方が文書に残されていないため、2部族によって「失われた10支族」と呼ばれた。これで北の住民である10支族は、次第に10支族としてのアイデンティティを失った等といわれてきた〔が事実とは大きく異なり、虜囚にされず故郷に残った人々のほうが多かった。そのため、指導者の一部を連行によって失いアッシリアの支配下に置かれても、彼らの支族としての文化や一体感に打撃を与えることはなかった。〕。拉致をまぬがれ現地に留まった人々は、周辺の異民族や、アッシリアによって逆に旧北王国の地に移住させられた異民族と通婚し混血することもあった〔が、異民族との混血は王国時代のユダヤ人(南王国人)も同じである。〕。サマリアにはゲリジム山を中心に、後世に独自に発達したユダヤ教と一部を共有する古来の祭祀が残存し、サマリア人としてユダヤ人と異なる文化とアイデンティティーを保ち続け、現在に至っている。
南王国のユダは、紀元前586年新バビロニアに滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが(バビロン捕囚)、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとし、宗教的・文化的なアイデンティティを確保するために異民族との通婚を嫌い、異民族と結婚したものをユダヤ人のコミュニティから排除する排他的な純血至上主義が信奉されるようになった〔聖書の一部も原資料はこの頃に書かれたと考えられている。〕。
彼らはアケメネス朝ペルシアによって解放され、イスラエルに帰還した〔ただし、ペルシアからイスラエルに帰還した人々が多数だったのか、ごく一部が帰還しただけで信仰の自由が保証されたペルシアに留まった者が多かったのか、そもそも虜囚とされずイスラエルに居続けた人々と帰還組との人口比率はどうだったのか等は、聖書学者によって様々な見解がある。〕。解放後、ユダヤ人と解放者であるペルシア帝国は良好な関係を継続し、エルサレム神殿も復興された〔聖書の一部にはペルシアの宗教であるゾロアスター教の影響がみられるが、それはその原資料の一部がこの頃にかかれたものが含まれるためである。〕。ペルシア人はその支配下にあるすべての民族の宗教を平等に扱ったため、同様の恩恵はサマリア人も受けていたと考えられるが、ユダヤ人はその純血主義によってサマリヤ人を異民族との混血と蔑み、北王国の末裔と認めず、祭祀を異にする点からも異教徒として扱う等、南北両王国時代の対立を民族的偏見として引き継ぐ形となった〔サマリア人への差別はイエス・キリストの時代までも続いた様子が新約聖書からも窺われる。〕。
ペルシア帝国がアレクサンダー大王によって滅ぼされ、ヘレニズム時代が開幕すると、ユダヤ人はアレクサンダー大王やその後継者であるギリシア人政権と激しく対立していった様子が旧約聖書外典等にみえる。バビロン捕囚時代・ペルシア時代・ヘレニズム時代の3つの時代を通じて、ユダヤ民族としての独自性を保つための基礎が作られ、宗教としてのユダヤ教が確立した。ローマ時代にはローマ帝国ユダヤ属州が置かれた。「ユダヤ」の名は直接にはこれからきている〔このユダヤ属州には、かつての旧北王国の本土にあたるサマリアが含まれたが、さらに北部のガリラヤは含まれず、東部のギレアドもそのほとんどが含まれなかった。〕。
研究者のなかには、2世紀初頭のバル・コクバの乱ローマ帝国によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、サマリヤ人の大部分とユダヤ人の一部はこの地に残り、のちにイスラム教に改宗し、現在のパレスチナ人の遠祖となったと指摘するものがある。一方、いわゆるシオニズムを支持する学者の一部は、こうした指摘を否定している。ユダヤ人はのちに商人的な性格を強くし、商業を営みつつ世界に広がっていくことになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イスラエルの失われた10支族」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ten Lost Tribes 」があります。




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