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アンドレイ・マルコフ : ウィキペディア日本語版
アンドレイ・マルコフ

アンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフ(、ラテン転写: Andrey (Andrei) Andreyevich Markov、1856年6月14日 - 1922年7月20日、日付はいずれも新暦)は、ロシア数学者。特に確率過程論に関する業績で知られる。彼の研究成果は、後にマルコフ連鎖として知られるようになった。
同じアンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフという名前を持つ彼の息子(1903年 - 1979年)もまた著名な数学者であり、構成的数学や再帰関数論の発展に寄与した。
== 経歴 ==
アンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフは、リャザン森林管理局長を勤めていたアンドレイ・グリゴールヴィチ・マルコフと、その最初の妻であったナジェージダ・ペトローヴナ・マルコワの息子として、リャザンの地で生まれた。
1860年代の初め、父アンドレイ・グリゴールヴィチはサンクトペテルブルクに転居し、王女エカテリーナ・アレクサンドローヴナ・ヴァルヴァチェヴァの資産管理者となった。
マルコフの最初の学校生活は、1866年、サンクトペテルブルク第5グラマースクールに入学した時に始まった。この頃から既に、彼は高等数学に強い興味を持っていた。グラマー・スクール在学中の17歳の時に、彼はヴィクトール・ブニャコフスキーアレクサンドル・コルキンイェゴール・ゾロタレフといった数学者に対して、線形常微分方程式の全く新しい解法を提案しており、その結果コルキンの学生らが集ういわゆる「コルキンの土曜日」に招待された。1874年に学校を卒業すると、彼はサンクトペテルブルク大学物理数学の研究を始めた。
彼が師事した教員にはユリアン・ソホツキー微分法、高等代数学)、コンスタンチン・ポッセ解析幾何学)、イェゴール・ゾロタレフ(積分法)、パフヌティ・チェビシェフ数論確率論)、アレクサンドル・コルキン(常/偏微分方程式)らがいる。
1877年、彼は『連分数法を用いた微分方程式の積分と方程式 (1+x^2) \frac = n (1+y^2)への応用』という問題に対する驚異的な解法が評価され、金メダルを授与された。翌年、彼は選抜試験に合格し、講師職を得る準備のために大学に残った。
1880年春、マルコフはコルキンとゾロタレフの勧めにより、修士論文『正の行列式を持つ二元二次形式について』を提出した。
その5年後、1885年1月に、彼は博士論文『代数的連分数のいくつかの応用について』を提出した。
彼の教育面での仕事は、修士号を得た後の1880年秋に始まった。彼は私講師として、微積分の講義を行った。後に彼は解析学の入門講座、確率論(1882年に退職したチェビシェフの後任)、差分法などの講義を受け持った。1895/96年から1905年まで彼はさらに微分法の講義も担当した。
博士の学位を取得して1年後、1886年に彼は特任教授に指名され、さらに科学アカデミー会員にも推挙された。ブニャコフスキーの死後、1890年にはアカデミーの特別メンバーとなった。1894年には母校サンクトペテルブルク大学で、(通常の)教授職を得ることができた。
1896年には、チェビシェフの後継としてアカデミーの一般メンバーに推挙された。1905年に彼はmerited professor となり退職の権利を得たが、彼はすぐにそれを行使した。とは言え、彼は1910年まで差分法の講義を続けた。
1908年学生運動との関連により、サンクトペテルブルク大学の教授・講師は彼らの学生を監視するよう命じられた。マルコフは最初にこの命令を拒否し、なぜ彼が「支配者の代理人」となることを拒否するのかの説明文を著した。マルコフは大学でこれ以上教育を続けることを拒否され、結局大学からは完全に退職することになった。
1913年、サンクトペテルブルク大学の評議会は9人の科学者を名誉会員として推挙した。マルコフもその中に含まれていたが、教育省は彼の推薦を認めなかった。しかしそのわずか4年後、1917年2月革命の後に、推薦は認められることになった。マルコフは教壇に戻り、1922年に死去するまで確率論と差分法の講義を続けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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