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アンスコム ( リダイレクト:エリザベス・アンスコム ) : ウィキペディア日本語版
エリザベス・アンスコム

ガートルード・エリザベス・マーガレット・アンスコム (Gertrude Elizabeth Margaret Anscombe1919年3月18日 - 2001年1月5日)は、イギリスの哲学者である。アイルランドリムリック生まれ。彼女はウィトゲンシュタインの学生のひとりであり、のちにウィトゲンシュタインの哲学の権威となった。『哲学探究』を含む数多くのウィトゲンシュタインの著作を翻訳・編集した。1970年からケンブリッジ大学で哲学の教授を務めた。
彼女には、心の哲学行為の哲学哲学的論理学言語哲学、それに倫理学の著作がある。彼女の1958年の論文「現代の道徳哲学」は、分析哲学に「帰結主義」という用語を付け加えた。この論文とこれに続いて発表された論文は、現在の徳倫理学に対して大きな影響を与えた。彼女の『インテンション』という論文は、彼女の最大かつ最も影響力のある業績であると認められている。哲学の世界では、意図、行為、実践的理性という概念に対して、引き続き関心がもたれているが、この関心を喚起した主たるきっかけは彼女の論文であった。
==生涯==
ガートルード・エリザベス・マーガレット・アンスコムはアイルランドリムリック1919年3月18日にガートルード・エリザベス・アンスコムとアラン・ウェルズ・アンスコムの間に生まれた。父はアイルランド独立戦争の際リムリックでイギリス陸軍の司令官の職にあった。
彼女は1937年にサイドンハム高校を卒業し、その後オックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジに入学して『モッズ・アンド・グレーツ』(古典古代史哲学)を購読して、1941年に首席で卒業した。大学1年目にカトリックに改宗して、生涯敬虔なカトリックであった。彼女は父が職業軍人で兄弟も従軍していたのにイギリスの第二次世界大戦参戦に対して反対を公言して、論争の的となった。
アンスコムはピーター・ギーチと結婚した。ギーチは彼女と同じくカトリックへの改宗者で、ヴィトゲンシュタインの弟子で、有名なイギリスの大学の哲学者であった。彼らは三人の息子と四人の娘を得た。
オックスフォード大学を卒業後、アンスコムは1942年から1945年までニューンハム大学で大学院の奨学金給費研究員の地位を得た。彼女の志望はルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの講義の受講であった。彼女は大学在学中に『論理哲学論考』を読んでヴィトゲンシュタインに関心を持ったのである。ブラックウェル・UKを開いて5.53章の「私は記号のアイデンティティーで対象のアイデンティティーを表す。対象の違いは記号の違いで表す。」というくだりを読むや否やヴィトゲンシュタインと共同研究しようと思ったと彼女は言っている。彼女は熱狂的な弟子となり、ヴィトゲンシュタインの治療法によって、伝統的な体系的哲学の学習がうまくいかないという方法上の問題を克服できたと感じた。彼女は以下のように書いている。:

ケンブリッジでの奨学金給金研究員の機関を終えると、彼女はオックスフォード大学サマーヴィル・カレッジで研究員の職に就いたが、1946年から1947年頃に、彼女は自身の研究院生のW.A.ヒジャブとともに1週間ケンブリッジに滞在し、ヴィトゲンシュタインとともに宗教哲学の指導を受けた。彼女はヴィトゲンシュタインのお気に入りの弟子かつ彼の最も親しい友の一人となった(Monk 497-498)。彼が一般的に女性の大学人を嫌っていたことの例外として、ヴィトゲンシュタインはアンスコムに愛称「老人(old man)」を用いて好意的に言及している。彼女が自分の思想を正しく理解しているとヴィトゲンシュタインが信頼していたことは彼が彼女を『哲学探究』の翻訳者に指名したことからわかる。指名されたとき彼女はドイツ語を習得しておらず、ヴィトゲンシュタインは彼女のドイツ語習得のためにウィーンに住居を用意した
アンスコムは1947年にヴィトゲンシュタインがケンブリッジを去って後もたびたび彼を訪問し、1951年ケンブリッジで彼が死の淵にあるころにも彼を見舞った。ヴィトゲンシュタインは彼女をラッシュ・リーズやゲオルグ・ヘンリク・フォン・ヴリクトともども遺著管理者に指名した。1951年に彼が没したのちに、アンスコムはヴィトゲンシュタインの草稿・遺稿の編集・翻訳・公刊の責任を負った。
1960~1970年代に、彼女はローマ・カトリック教会の避妊反対を擁護する記事を書いてリベラル派の同僚に対する嫌悪感を露わにした。後半生において、彼女は妊娠中絶が合法化されて以降にイギリスの妊娠中絶を行っている医院に対する抗議を行って2度逮捕されている(albeit with restrictions)。
アンスコムは1946年から1970年までサマーヴィル・カレッジに所属した。彼女は自身の信仰に対する悪口に関して公に激しい議論を行うのを厭わないことでも知られた。1956年にオックスフォード大学で研究員だった頃、アンスコムはオックスフォード大学のハリー・S・トルーマンにたいする名誉学位授与の決定に対して抗議した(それ以前に彼女はトルーマンが広島長崎原爆を投下したことを批判していた)。
アンスコムは1970年にケンブリッジ大学の哲学教授に任じられ、そこに1986年に引退するまで勤めた。1979年にはアメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に選出された。
後半生には、アンスコムは心臓病に悩まされた。一方1996年には自動車事故で瀕死の重傷を負った。晩年にはケンブリッジで家族に介護されながら過ごした。彼女は2001年1月5日に夫や自分の7人の子供のうちの4人に看取られながら81歳で死去した。
彼女は埋葬してほしい場所を言わなかったので、遺族は彼女を、現在のアセンション・パリッシュ・ビュリアル・グラウンドに埋葬することに決定した。同地は彼女の家から最も近い墓地であった。火葬にしなければ埋葬するのに十分な大きさの区画が得られなかった。共同墓地の新しい区画では十分でなかったためにエリー司教管区の責任者との交渉の末に最終的に得たのは古い墓で、50年前にヴィトゲンシュタインが埋葬された区画の角向かいであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 G. E. M. Anscombe 」があります。




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