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アレクサンダー・ツー・ドーナ=シュロビッテン : ミニ英和和英辞書
アレクサンダー・ツー・ドーナ=シュロビッテン[てん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
テン : [てん]
 【名詞】 1. 10 2. ten 3. (P), (n) 10/ten

アレクサンダー・ツー・ドーナ=シュロビッテン : ウィキペディア日本語版
アレクサンダー・ツー・ドーナ=シュロビッテン[てん]

アレクサンダー・ブルクグラーフ・ウント・グラーフ・ツー・ドーナ=シュロビッテンAlexander Burggraf und Graf zu Dohna-Schlobitten, 1661年1月25日 コペット城、レマン湖畔 - 1728年2月25日 ケーニヒスベルク)は、ブランデンブルク=プロイセンの貴族、将軍、元帥、外交官。城伯および伯爵
== 生涯 ==
南仏オランジュ公領(オラニエ=ナッサウ家の世襲領)の総督を務めたフリードリヒ・フォン・ドーナ伯爵(1621年 - 1688年)と、そのフランス人の妻エスペランス・デュ・ピュイ・ド・モンブルン=フェラシエール(''Esperance du Puy de Montbrun-Ferrassières'', 1638年 - 1690年)の間の息子として生まれた。弟のクリストフとともに哲学者ピエール・ベールに教育を受け、長期のグランドツアーにも赴いた。
1679年にブランデンブルク=プロイセン軍に仕官し、東プロイセンのモールンゲン(現在のポーランドヴァルミア=マズールィ県モロンク)およびリープシュタット(現在のヴァルミア=マズールィ県ミワコヴォ)の郡代官(Amtshauptmann)に任命された。1686年に陸軍大佐に昇進、また名目的な枢密顧問官に就任する。選帝侯フリードリヒ3世(後のプロイセン王フリードリヒ1世)によって何度かポーランド共和国への外交使節として送り込まれ、1688年にはプロイセンとポーランドの友好条約を更新することに成功した。
1689年から1690年にかけてフランスとの戦争(大同盟戦争)に参加した。1689年10月10日にボンで進軍中に襲撃されて負傷したが、その9日後の10月19日に准将(''Generalwachtmeister'')に昇進した。1690年10月9日には少将となり、同時に東プロイセン駐屯第16歩兵連隊(''Altpreußisches Infanterieregiment No. 16'')の連隊長に任命される。その後、外交使節としてストックホルムに赴任し、1691年2月1日には正式な枢密顧問官会議の一員に加わった。1692年にはピーラウ(現在のロシアカリーニングラード州バルチースク)の知事となった。
1693年にはネーデルラントでのフランス軍との戦争に参加し、1695年1月25日に中将に昇進する。その1カ月後に選帝侯家の世継ぎ公子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世)の傅育官長(Oberhofmeister)に任命され、この職を9年近く務めた。1701年1月17日には、創設されたばかりの黒鷲勲章を最も早くに授与された1人となった。
宰相のコルベ・フォン・ヴァルテンブルク伯爵とは敵対関係にあり、このため1704年より長く宮廷から遠ざかり、枢密顧問官会議にのみ出席した。ヴァルテンブルクの失脚後は再び国政の中枢に戻り、プロイセン国有地回復担当委員会(''Kommission zur Herstellung des Kammer- und Domänewesens in Preußen'')の委員長を務めた。そして1712年から亡くなるまで、ケーニヒスベルクに置かれたプロイセン州政府の長を務めていた。1713年3月25日に歩兵大将に、同年9月5日に元帥に昇進した。
1684年9月10日に同族のアマーリエ・ルイーゼ・ツー・ドーナ=カルヴィンデン伯爵夫人(1661年 - 1724年)と最初の結婚をし、間に6男8女の14人の子女をもうけた。うち、成人したのは7人(2男5女)である。最初の妻と死別後、1725年12月26日にヨハンナ・ゾフィー・ツー・ドーナ=ライヒェルツヴァルデ伯爵夫人(1682年 - 1735年)と再婚したが、間に子供は無かった。ドーナ=シュロビッテンはラウジッツの古参の名門貴族ドーナ家の分枝ドーナ=シュロビッテン家Dohna-Schlobitten)の始祖である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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