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アルフレッド・シスレー : ミニ英和和英辞書
アルフレッド・シスレー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アルフレッド・シスレー : ウィキペディア日本語版
アルフレッド・シスレー[ちょうおん]

アルフレッド・シスレーAlfred Sisley, 1839年10月30日 - 1899年1月29日)は、フランス生まれのイギリス人の画家
== 略歴 ==

シスレーは1839年10月30日、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。
1857年、18歳のときにロンドンに移り叔父のもとでビジネスを学ぶが、商業よりも美術に関心を持ちターナーコンスタンブル等の作品に触れた。4年後中断してパリに戻り、フレデリック・バジールのすすめでマルク=シャルル=ガブリエル・グレールのアトリエで学び、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会う。彼らは共に、スタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作することを選んだ。このため、彼らの作品は当時の人々が見慣れていたものより色彩豊かで大胆であったため、展示されたり売れることはあまりなかった。彼らの作品は当時のサロンの審査員からは受け入れられなかった。1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場あった。当時はとくにルノワールと親しく、ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品している。
1866年、シスレーはパリに住むブレトン人ウジェニー・レクーゼク (1834年-1898年、マリー・レクーゼクとしても知られる)と交際を始める。二人の間には息子ピエール (1867年生) と娘ジャンヌ (1869年)が生まれた。〔Turner 2000, pp. 400–401.〕当時シスレーはアヴニュー・ド・クリシー近くに住んでおり、パリ在住の画家の多くが集まるカフェ・ゲルボワの常連ともなっていた。
1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、あまり評価されなかった。
1870年、 普仏戦争勃発し、ブージヴァルに住んでいたシスレーは敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産、経済的必要を満たすために作品を売るしかなくなる。しかしシスレーの作品はなかなか売れず、以後彼は死ぬまで困窮した中で生活することになる。〔Denvir 2000, p. 265.〕 1871年、パリ・コミューンを避けルーヴシエンヌにほど近いヴォワザンへ移住。その後、アルジャントゥイユブージヴァルポール=マルリにも移住。
経済的困難もあったが、後援者の助けもあり何度かイギリスに短い旅をしている。最初の機会は1874年で、第一回印象派展の後に熱心な収集家で著名なオペラ歌手であったジャン=バティスト・フォールの招きによりイギリスに滞在(7~10月)している。シスレーはロンドン滞在中、テムズ川上流のモレジーで20近くの作品を制作した。
1875年にはモネ、ルノワール、ベルト・モリゾとともに水彩画、油彩画の即売会を開催する。
1880年代に、パリの東南方、セーヌ川の支流のひとつであるロワン川沿いに活動の拠点を移した。
1881年には再びイギリスを訪れている。
1889年にはモレ=シュル=ロワンに移住。1893年よりモレ=シュル=ロワンのノートルダム教会を連作で14点描いた。
1897年にはパートナーのウジェニーと共に再びイギリスを訪れ、8月5日にはカーディフで婚姻届を提出した。〔www.museumwales.ac.uk 〕 二人はカーディフ近郊のペナースに滞在し、シスレーは少なくとも6枚の油彩画を制作した。8月中旬にはガウワー半島のLangland Bayのホテルに移り、少なくとも11枚の油彩画を制作した。10月にフランスに戻っており、この旅が祖国を訪れた最後になった。カーディフ国立美術館にはこの時の作品が所蔵されている。
その後、シスレーはフランスの市民権を得ようと申請するが、却下された。2度目の申請時には病気が原因で却下されたという。〔BBC Radio 4 6th November 2008, Misfits in France〕
シスレーは1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンにて喉頭癌のため死去した。妻が癌で亡くなった数か月後のことで、二人はモレ=シュル=ロワンの墓地に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アルフレッド・シスレー」の詳細全文を読む




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