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クロード・モネ : ミニ英和和英辞書
クロード・モネ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クロード・モネ : ウィキペディア日本語版
クロード・モネ[ちょうおん]

クロード・モネ(, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランス画家。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。モネは印象派グループの画家のなかでは最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。ルノワールセザンヌゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。
フルネームは当初オスカル=クロード・モネ()であったが、本人がオスカルの名を好まなかったため、通常は「クロード・モネ」と名乗っていた(改名したのかどうかは不詳)。
== 初期 ==
1840年パリのラフィット街に生まれる。5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住した。モネは少年の頃から絵画に巧みで、10代後半の頃には自分の描いた人物のカリカチュア戯画)などを地元の文具店の店先に置いてもらっていた。1856年から1858年の年記のある素描や戯画が現存している。1857年にはコレージュを退学。この頃から地元の美術教師でジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子であったフランソワ=シャルル・オシャールに絵を学んでいる。1858年頃、モネの描いていた戯画が、ル・アーヴルで活動していた風景画ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、彼らは知り合うことになる。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった。ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われている。モネの現存する最初の油絵は、1858年の年記のある『ルエルの眺め』(埼玉・丸沼芸術の森所蔵、埼玉県立近代美術館寄託)である。この作品はバルビゾン派の影響のみられるもので、地元ル・アーヴルの展覧会に出品された。
モネは1859年、パリに出て、1860年にアカデミー・シュイスに入学、ここで後に印象派の仲間となるカミーユ・ピサロらと知り合う。1年強のアルジェリアでの兵役を経て、1862年秋、シャルル・グレールのアトリエに入り、ここではシスレーバジールルノワールらと知り合っている。グレール自身はアカデミックな作風の画家であったが、彼は生徒に自分の作風を強要せず、自由に個性を伸ばす指導方針であったので、アカデミックな美術教育にあきたらない画家の卵たちが彼のアトリエに集まることになった。
1865年、サロン・ド・パリに2点の作品を初出品し、2点とも入選した〔出品作は『オンフルールのセーヌ河口』(パサディナ、ノートン・サイモン財団)、『干潮のエーヴ岬』(フォートワース、キンベル美術館)の2点。〕。翌1866年のサロンには、エドゥアール・マネの著名な作品『草上の昼食』(1863年)と同じテーマの作品を出品することを予定していた。モネの『草上の昼食』は縦4メートル、横6メートルを超える大作であったが、サロン出品の締切までに制作が追いつかなかった〔この『草上の昼食』のキャンバスは後に切断分割され、そのうちの2点がオルセー美術館に現存するのみである。〕。しかし、代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女』と『シャイイの道』は、2点とも入選を果たした。『緑衣の女』は、モネの恋人カミーユ・ドンシューをモデルにしたもので、ベラスケス風の人物画であり、当時の審査員の好みに合うものであった。1868年のサロンでは出品した2点のうち1点が入選するも、1869年と1870年のサロンには落選し、以後しばらくサロンへの出品を取りやめる。1867年8月にはカミーユ・ドンシューとの間に長男ジャンが生まれるが、家族はモネとカミーユの仲を認めず、彼らが正式に結婚したのは1870年のことであった。
1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、同年9月頃ロンドンへ赴き、翌年5月まで滞在した。ロンドンではイギリス風景画の第一人者ターナーコンスタブルの作品を研究するが、ロンドンで制作した作品は少なく、カタログ・レゾネによれば6点のみである。当時ロンドンに滞在していた著名な画商ポール・デュラン=リュエルともこの時期に知り合っている。モネは1871年5月までロンドンに滞在した後、数か月のオランダ滞在を経て、同年秋にパリに戻り、同年12月、郊外のアルジャントゥイユに転居した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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